アナログに帰る、不穏なサイン
──平成0x29A年06月05日 17:00
公共アーカイブ課の窓口は、いつも通り静かだ。天井から伸びる公共ARサインは、普段は「電子手続き推奨」と表示しているのに、最近は「旧式情報媒体参照はこちら」という文字が混ざるようになった。
「陸、また来たわよ。あのリクエスト」
俺の脳内に、祖母ヨネのエージェントの声が響く。享年91で老衰、物持ちが良すぎて遺品整理に苦労した祖母は、今や俺の仕事の頼れる相棒だ。「旧式情報媒体参照手順再構築」リクエスト。一見穏やかなこの通知が、ここ最近、異常な頻度で届いている。
デスクの隅には、使い古された紙のカレンダーが掛かっている。そこに今日の『06/05』に赤丸が打たれているのを見るたび、少しだけ現実に引き戻される気がする。視界の右端では、AR広告が絶えず「平成の人気アイドルユニット、再結成ライブ!」なんて、俺が生まれる前の映像を流し続けている。一体いつの時代なんだ、と苦笑するしかない。
午前中、ある老婦人が持ち込んだのは、色褪せた写真の現像袋だった。「デジタルデータは全て消えてしまってね、これしか残ってないの」そう言って差し出された袋には、銀塩写真が十数枚。彼女の家族が、システム上の記録から消えてしまったのだという。
「党ドクトリンのアルゴリズムも、随分と脆くなったもんだねぇ」
ヨネが言う。まるで、昔のラジオ番組の再放送を聞くかのような口ぶりだ。党の実体なんて誰も知らないが、そのドクトリンを裏打ちするアルゴリズムが、半ば公然と解読されているという噂は、ここ数年で耳にするようになった。デジタルデータへの信頼が揺らぎ、アナログの記録に回帰しようとする動きは、その揺らぎの表れなのだろう。
目の前の端末が赤く点滅し始めた。第0x29A7B内閣ユニット、内閣総理大臣就任、期間5分。俺が、だ。慣れた手つきで端末をタップすると、今回の閣議決定リクエストが表示された。「デジタル記録の破損・欠損が発生した際に、旧式媒体による情報補完を義務付ける法案」とある。ヨネが「やっぱりね」と小さく呟いた。
エージェントの助言を求めるまでもなく、俺は承認の署名ボタンを押した。指紋認証と虹彩スキャンが完了すると、端末は「承認完了」のメッセージを表示し、すぐに通常のアーカイブ業務画面に戻った。俺の首相としての5分間は、呆気なく終わった。
窓口の向こう、薄暗い通路には、まだ「旧式情報媒体参照はこちら」のARサインが青白く光っている。紙媒体の資料が山積みにされた棚の奥から、カビのような、埃のような、古くて懐かしい匂いがする。かつて「非効率」と切り捨てられたはずのアナログが、今、再び重みを増している。それは、失われたものを補うための温かい光景か、それとも、いずれ全てが消え去る前の、最後の足掻きなのか。
俺は、目の前の古びたフロッピーディスクリーダーと、最新のARグラスを交互に見た。二つの時代が混線するこの場所で、システムの歪みが、じわりと足元を浸食していくような不穏な感覚に襲われた。