銀色の円盤、母のいない六時

──平成0x29A年06月29日 06:00

 AM 06:00。枕元の端末が、平成初期の電子音のようなアラームを鳴らした。

「おはようございます。玲さん。血圧、体温、共に正常範囲内です」

 視界の端で、代替エージェント『AS-409』の無機質なフォントが踊る。本来ならここに、少し掠れた声で「いい加減に起きなさい」と急かす母・芳江がいるはずだった。だが、彼女の人格データは昨日から法定倫理検査に回されている。三年に一度、党ドクトリンへの忠誠心と倫理的整合性を洗浄される、魂の車検のようなものだ。

 私は重い体を引きずり出し、首筋に貼っていた使い捨てのナノ医療パッチを剥がした。パッチに含まれる微細な薬理ナノマシンが、睡眠中に凝り固まった思考を強制的にほぐしてくれる。代償として、口の中にアルミ箔を噛んだような苦味が残った。

 第9治安ブロック、不審情報スクリーニング課。それが私の職場であり、この自宅もまた、その末端の監視ポストとして機能している。

 玄関の新聞受けから、ずっしりと重い「朝刊」を引き抜いた。平成エミュレート政策の一環として、この地区では毎日、紙の新聞が配られる。情報の鮮度はデジタルに劣るが、アルゴリズムが「社会の情緒的安定に寄与する」と判断した結果だ。中からバラバラと、色鮮やかな折込チラシが床に散らばった。

「玲さん、床の上の物体に未承認の差分アルゴリズムが含まれている可能性があります」

 AS-409が警告を発する。私は無視して、チラシの束を拾い上げた。サトームセンの激安特売、謎の健康食品、そして『党』が発行する「不審な近隣住民の通報を」という啓発ビラ。その中に一枚、場違いな真っ白な紙が混ざっていた。

 中心に、マジックで書かれたような歪な円。その下に「0629」とだけ記されている。

「記憶補助アプリを起動。照合します」

 私は自分の脳にリンクしたアプリを叩いた。過去の膨大な視覚ログが高速で検索される。数秒後、一つの記憶がヒットした。十年前、母が病床で私に手渡そうとした、古い記録媒体。光を反射して虹色に輝く、銀色の円盤――CD-Rだ。

 あの時、母は「これはお母さんの、洗われていない秘密」と言って笑った。結局、その円盤は党の不審物回収ユニットに没収され、中身を知ることはできなかった。だが、このチラシに描かれた円の歪みは、あの時没収されたCD-Rの輪郭と完全に一致していた。

「不審なパターンを検知。内閣ユニット第0x1F2Aへ署名リクエストを送信しますか?」

 AS-409の問いに、私は「いいえ」と答えた。今、この瞬間の五分間、どこかの誰かが総理大臣を務め、機械的に閣議決定の署名を回しているはずだ。私が報告すれば、このチラシは一瞬で「社会のバグ」として処理されるだろう。

 私は白い紙を裏返した。そこには、小さな文字で、母の筆跡にそっくりなフォントが並んでいた。
『検査が終わったら、一緒に美味しいお茶を飲みましょう。忘れないでね』

 それは、倫理検査のプロセスを逆手に取った、検査官か誰かによる「粋な計らい」なのか、あるいは母が検査前に仕込んだ最後の差分なのか。記憶補助アプリは、この筆跡が母の生存時のものと99.8%一致すると告げている。

 AS-409が突然、ふらりと私の隣にホログラムを投影した。その動きが、一瞬だけ、母がよくやっていたように首を傾げる仕草を見せた。

「玲さん。なぜか、私のエミュレーション・ログに『懐かしい』というタグが付与されました。エラーでしょうか」

 無機質な代替エージェントの声に、ほんのわずかな熱が混じった気がした。私はそのチラシを小さく折りたたみ、ナノ医療パッチを捨てたゴミ箱の底へ、誰にも見つからないように隠した。

 母が帰ってくるまで、あと四十八時間。私はそれまで、この「バグ」を誰にも報告しないと決めた。窓の外では、平成の朝を模した偽物の太陽が、冷たく街を照らし始めていた。