静脈のログアウト
──平成0x29A年 日時不明
朝の採血室は、いつも蛍光灯の音がする。
ジジジ、という微かな唸り。天井の安定器が古いのだ。予算申請は三年前に出したが、第何十万番目かの内閣ユニットが五分間の任期中に承認してくれる見込みは薄い。私はそれを知っている。知っているから、もう出していない。
「おはようございます、七番の方」
受付番号七番の老人が、ビニール張りの椅子にゆっくりと腰を下ろす。左腕を差し出す仕草が自然で、慣れた患者だとわかる。私は駆血帯を巻きながら、腕のポケベルが震えるのを感じた。
ポケベルの液晶に数字が並ぶ。それを読み替えるのは、亡くなった姉さんの仕事だ。
「ミドリ、読んで」
耳の奥で、姉さんの声が応える。少しだけ鼻にかかった、生前のままの声。
『検体管理システムからの定期通知。本日分の遺伝子ネットワーク照合キットが配送済み。冷蔵庫Bに格納。あと、あんた朝ごはん食べた?』
「おにぎり食べた」
「え?」と七番の老人が顔を上げる。
「すみません、独り言です。ちょっとチクッとしますね」
針を刺す。暗い赤が真空管に吸い込まれていく。三本。うち一本は、通常の血液検査。もう一本は生活習慣病スクリーニング。最後の一本は──ラベルに小さく「GN照合」と印字されている。
遺伝子ネットワーク照合。年に一度、対象者に届く案内状で来院する人がほとんどだが、何の検査か正確に理解している人は少ない。私だってそうだ。皇室由来の遺伝子マーカーを追跡して、ネットワークの連続性を維持する。それだけのことだと姉さんは言う。それだけのことなのだ、たぶん。
七番の老人が帰ったあと、私は採血管を仕分けしながら、デスクの隅に置いたポータブルMDプレーヤーのイヤホンを片耳だけ入れた。流れてくるのはストリーミングで落としたプレイリスト──「平成ヒットパレード vol.38」。MDの中にストリーミング音源が入っている矛盾を、誰も気にしない。スピッツが鳴っている。『ロビンソン』。姉さんが好きだった曲だ。
『あんたが好きだったんでしょ、それ』
「姉さんがカラオケで歌ってたからだよ」
『私はドリカム派』
「知ってる」
午前の患者が途切れた隙に、ポケベルがまた震えた。今度はミドリが読む前に、液晶を自分で覗いた。
数列。見覚えのある書式。内閣ユニットからの召集通知だ。
『来たね』とミドリが言う。
私はゴム手袋を外しながら、通知の文面をエージェント経由で展開した。
「第0x7A2F1内閣ユニット、臨時内閣総理大臣に任命。任期:本日11時42分より5分間」
十一番の患者の予約が11時40分だ。
『断れないよ、ランダムだから』
「わかってる」
私は受付の端末──iモード画面がちらつくブラウン管モニタ──に「11:40~11:50 採血室一時閉鎖」と入力した。
11時42分、採血室の椅子に座ったまま、私は内閣総理大臣になった。
エージェント経由で三件の政策変更リクエストが届く。ミドリが要約を読み上げる。一件目、公共施設の蛍光灯安定器交換に関する補助金拡充。
私は思わず天井を見上げた。ジジジ、と安定器が鳴いている。
署名には党ドクトリンの暗号アルゴリズムが要る。だが、最近はその鍵が半ば公開状態だと噂で聞く。
『承認する?』
「……する」
五分後、私はまた採血技師に戻った。十一番の患者が待合室で週刊少年ジャンプを読んでいた。
午後、施設課から連絡が来た。蛍光灯安定器の交換申請が却下されたと。別の内閣ユニットが、同じ五分間に反対の決定を出したらしい。
天井がジジジと笑った。
『ドリカム流そうか』とミドリが言った。
「いいよ。流して」
針を換えた。次の患者の腕に、また静かに赤が昇ってくる。