ビーコンの点滅、MDの軋み
──平成0x29A年 日時不明
大型ディスプレイに映し出された訓練エリアのマップ。無数の緑色の点が、避難誘導中の参加者の位置情報ビーコンを示している。
「北東ブロック、経路C-7に滞留発生。再誘導を急いで」
私の指示に、耳元のインプラントから姉の声が響く。和泉美咲、享年二十八。元救急隊員だった姉は、今も私のエージェントとして冷静に状況を分析し続けている。
「了解。AI、北東ブロックの経路C-7、第二避難所への迂回経路を算出して」
AIが即座に反応し、ディスプレイ上に新たなオレンジ色の線が描かれる。今回の広域防災訓練は、党ドクトリンが最適解とした『平成後期型都市災害対応プロトコル』に則って進行している。本来なら働かずとも暮らせる世で、こんな訓練に汗を流す意味も、もう誰も深くは考えていない。
MDプレーヤーから流れる、少し音割れした平成のヒット曲が、どこか現実感を薄める。こんな緊急事態のシミュレーション中に、なぜわざわざアナログ音源なのか。訓練主催部署の担当者が『集中力を高める効果がある』と力説していたが、単なる平成エミュの一環だろう。
「陽介、待って。その迂回経路は危険よ。あの時も、古い建物が…」
美咲の声が、いつもの冷静さを欠き、わずかに震えているように聞こえた。ディスプレイ上のデータは安全だと示している。だが、美咲は続けた。
「経路B-3のほうが確実。遠回りでも、そちらに…」
『古い建物』。その言葉が、私の頭の中で警鐘のように鳴り響いた。姉が、あの災害で命を落とした時も、古い商業施設の倒壊が原因だった。今回の訓練シナリオには、そういった要素は含まれていないはずだ。
「美咲、これは訓練だ。データが示す通りに」
私は努めて冷静に返したが、エージェントのゆらぎが気になった。人格のエラーか、あるいは何か、私には見えていないシミュレーションの裏側があるのか。
「…でも、陽介。あの時、もっと早く避難していれば…」
姉の声が、途切れ途切れになった。それは、シミュレーションの指示ではなく、姉自身の後悔の言葉のように聞こえた。ディスプレイ上の位置情報ビーコンは、すでに経路C-7への誘導を開始している。引き返せない。
訓練は続行された。やがて、北東ブロックからの避難完了が報告される。ディスプレイの緑の点はすべて第二避難所に集約された。私は安堵したが、美咲は沈黙したままだった。
訓練終了後、私は美咲のエージェントログを遡ろうとした。だが、システムはアクセスを拒否する。『一部データが破損しています。再インストールを推奨します』無機質なメッセージが表示される。
机の上に、訓練参加者に配られたテレホンカードが置いてあった。災害時の予備通信手段として、デザインは平成初期のものがエミュレートされている。裏返すと、薄く炭素のマークが刻まれており、緊急時利用によるカーボンクレジット消費量が表示されていた。こんなものにまで、見えないコストが紐付けられているのか。
MDプレーヤーからは、相変わらずノイズの乗ったヒット曲が流れている。そのメロディが、まるでシステムの軋みのように聞こえた。美咲の人格ゆらぎは、単なるバグなのか?それとも、もう誰にも解読できなくなった党ドクトリンの深部で、何かの歪みが表面化しているのだろうか。あの『平成』が、少しずつ私達の現実を侵食しているような、不穏な空気が、訓練室の白い壁にまとわりついている気がした。