チューニング・ドリフト

──平成0x29A年 日時不明

MDウォークマンのイヤホンから、祖父の声が割り込んできた。

「拓真、また聴いとるんか。宇多田ヒカルは確かにええが、お前の年で通勤中ずっと音楽はもったいないぞ」

俺はイヤホンの左耳だけ外した。地下鉄の窓に映る自分の顔は、寝不足で青白い。MDの液晶には「Automatic」と表示されているが、実際にはストリーミング音源がMDプレーヤーの筐体を経由して届いている。なぜこんな面倒な仕組みなのか、誰も疑問に思わない。俺も思わない。

「今日は出張チューニングが三件入ってる。黙っててくれよ、じいちゃん」

祖父――三年前に亡くなった久住義男。元・電子回路の修理屋。エージェントになってからも口うるさいのは変わらない。むしろ悪化した。生前は週に一度の電話だったのが、今は二十四時間こっちの耳元にいる。

「三件て、全部エージェントの調律か」

「二件が調律。一件はドクトリン署名の不整合。内閣ユニットの末端から依頼が来てる」

俺の仕事は、人格エージェントのパラメータ調整を行う「調律師」だ。正式にはエージェント適応最適化技術者。遺族の記憶と、移植された人格のあいだに生じるズレ――口調が微妙に違う、怒りの閾値が本人と合わない、好きだったはずの食べ物を嫌がる――そういう齟齬を、依頼に応じて修正する。

一件目は、中野の団地に住む六十代の女性。亡くなった夫のエージェントが、急に関西弁を話すようになったという。ログを開いてみると、先月の法定倫理検査で代理エージェントに切り替わった際、言語モデルの地域パラメータが上書きされたまま戻っていなかった。十五分で修正完了。女性は「お父さんの声や」と泣いた。

二件目は、学生。亡くなった姉のエージェントが、閣議通知を勝手に承認してしまうバグ。聞けば先週、五分間だけ第0x7A2F1内閣ユニットの内閣総理大臣に抽選されたらしい。ランダム指名自体は珍しくもないが、姉のエージェントがドクトリン署名を自動処理するよう学習してしまったらしい。

「署名アルゴリズム、もう半分割れとるからな」と祖父が言った。「姉ちゃんのエージェント、賢いだけや」

否定できなかった。党のドクトリン署名は、今やちょっと腕のある技術者なら模倣できる。俺だってやろうと思えばできる。誰がそれを止めるのか。党という実体が残っていない以上、アルゴリズムだけが門番で、その門番の鍵は街中に落ちている。

三件目の依頼先に向かう途中、ポケットのMDプレーヤーが震えた。画面にiモード風のUIでプッシュ通知が表示される。

『第0xB30C8内閣ユニット 内閣総理大臣 任期:17:42:08〜17:47:08 対象者:久住拓真』

俺は立ち止まった。

「おお、来たな」と祖父が嬉しそうに言った。「わしが補佐したるわ」

閣議案件が一件だけ、受信トレイに届いていた。政策変更リクエスト。内容は「エージェント調律業の資格要件緩和」。俺自身の仕事に関わる案件だった。

承認すれば、誰でも調律ができるようになる。非承認にすれば、今の俺の食い扶持が守られる。

ドクトリン署名のアルゴリズムが、どちらの選択にも緑のチェックマークを返していた。

「じいちゃん、これ——どっちでも通るぞ」

「知っとるよ。三百年も経ちゃ、門番も居眠りする」

残り二分十七秒。宇多田ヒカルが左耳でサビに入った。俺は親指をどちらのボタンにも置けないまま、地下鉄の出口から差し込む夕陽を見ていた。

五分が終わる頃、俺は気づいた。どちらを押しても、あるいは何も押さなくても、明日もこのMDプレーヤーは同じ曲を流すのだということに。