16bitの署名、深夜のジャングルジム
──平成0x29A年08月12日 02:50
深夜二時五十分。公園の湿った空気は、どこか懐かしい泥の匂いがした。俺は重たいCRTモニターをベンチに置き、「時間貸しCPU」と書かれた古びた緑色のスタンドにケーブルを接続した。ブゥン、という低い唸りとともに、ブラウン管の画面に砂嵐が走る。
『おい圭人、角度が悪い。モアレが出てるぞ』
脳内のインプラントから兄貴の声が響く。二年前に首都高の崩落事故で死んだ兄貴だ。口うるさい性格まで完全に再現されたエージェントは、俺が画面の微調整を終えるまで黙らなかった。
「これでいいだろ。まったく、なんでこんな重い遺品を残したんだよ」
『遅延ゼロで信号を拾うには真空管に限るんだよ。液晶や有機ELじゃ、あのアルゴリズムの揺らぎは見えない』
俺はバックパックから黄ばんだスーパーファミコンの本体を取り出した。カセットスロットに差さっているのは『ストリートファイターII』……の外装をした、兄貴自作の解析ツールだ。こいつを使って、兄貴が生前隠したという「裏帳簿」のデータを探すのが最近の日課だった。時間貸しCPUに三百円分のクレジットを投入する。公園の演算リソースが俺の端末に割り当てられた。
電源を入れる。カセットが起動し、ドット絵のメニュー画面が表示された瞬間だった。
バチッ、と静電気のような音がして、公園の中央にある噴水の上に巨大な空中ディスプレイが展開された。普段は「党」からの広報や時報を映すだけのそれが、今は真っ赤なノイズを吐き出している。
『うわ、なんだあれ。圭人、見ろ』
「見てるよ。故障か?」
『違う。……露出してるんだ。ドクトリンの深層が』
空中ディスプレイに、滝のような文字列が流れ始めた。それは普段、厳重な暗号化によって隠蔽されているはずの「閣議決定アルゴリズム」のソースコードそのものだった。深夜の負荷低下と、俺が繋いだ旧式機材の電圧変動が偶然噛み合って、システムの蓋が開いてしまったらしい。
俺はとっさにスーファミのコントローラーを握った。十字キーを動かすと、信じられないことに、空中ディスプレイ上のカーソルが同期して動いた。セキュリティの穴というより、もはやザルだ。
「兄貴、これ……」
『触るなよ、下手にいじると反逆罪だぞ。……いや、待て。その1200行目』
俺はYボタンを押してスクロールを止めた。CRTモニターの走査線がチカチカと点滅する中、神聖不可侵とされる「党ドクトリン」の正体が露わになる。そこにあったのは、冷徹な数式ではなかった。
`// 暫定処置。第204ヘゲモニー期、予算不足のためハードコーディング`
`// ここを修正すると物流ブロックが死ぬので、次期担当者は触らないこと`
`// 帰りたい。ラーメン食いたい`
無数のコメントアウト。それは過去数百年にわたり、この国を回してきた名もなきエンジニアや、たった五分間の総理大臣たちが残した、悲鳴のようなメモ書きだった。完璧な独裁システムだと思っていたものは、継ぎ接ぎだらけのスパゲッティコードと、現場の愚痴で動いていたのだ。
「……なんだよこれ」
『傑作だな。俺たちが怯えていた「党」の中身が、これか』
兄貴の声が笑っていた。俺もつられて笑った。恐怖よりも先に、親近感が湧いてしまった。俺たちは、顔も知らない過去の誰かが「ラーメン食いたい」と思いながら書いたコードの上で、必死に生きている。
時間貸しCPUのタイマーが切れ、CRTモニターがプツンと消えた。同時に空中ディスプレイも元の静寂な夜空に戻る。
俺はコントローラーを置き、少しだけ軽くなった気がするベンチで、缶コーヒーを開けた。世界は相変わらず歪んでいるが、少しだけ人間臭い。