お探しのモデルは製造中止です、たぶん
──平成0x29A年09月26日 07:00
九月下旬、朝七時の「ヨドバシ・ビッグ」は、まだ客のいない静寂に満ちている。僕、三上健太は携帯電話コーナーの開店準備を進めていた。
新品のARグラスが並ぶ棚の向かいには、なぜか折りたたみ式の携帯電話、いわゆるガラケーのコーナーが古びた光を放っている。社会の文化様式が「平成」をエミュレートしているせいだ、と誰かが言っていた。その結果が、このちぐはぐな商品棚だ。
『健太、そこのポップ、またズレてるわよ』
僕の視界の隅で、姉さんの声がする。僕のAI秘書は、三年前に死んだ姉の由香里だ。
「どこが?」
『最新ナノ医療パッチの紹介の横に「着メロ500曲取り放題!」はないでしょ。誰ももう着メロなんて気にしないわよ』
指摘されたポップを見ると、確かにそうなっていた。党ドクトリンのアルゴリズムが推奨する「平成的最適化」が、時々こんなおかしなバグを吐き出す。僕はため息をつきながら、表示データを修正した。
自動ドアがフライング気味に開いて、老人が一人、入ってきた。
「すまんが、ワシのガラケーが壊れてな。同じものをくだされ」
老人がカウンターに置いたのは、アンテナ付きの年代物だった。うちの店で扱っている「最新型」のガラケーとは似ても似つかない。
「お客様、申し訳ありませんが、そのモデルはとっくに製造が…」
「ないと困るんだ! これじゃないと、使い方が分からんのだ!」
始まった。こういう客は週に三人は来る。彼らにとって、この店に並ぶ折りたたみ携帯は希望の光だが、その実態は、中身だけ最新で操作系が微妙に違う「平成風ガジェット」でしかない。そのズレを説明するのが、僕の憂鬱な仕事の一つだった。
『ほら、あんたの出番よ。お得意の「申し訳ございません」で乗り切れば?』
姉さんの皮肉が耳に痛い。僕が老人にどう説明したものか途方に暮れていると、視界にポップアップ通知が割り込んできた。
【第0x881A内閣ユニット 内閣総理大臣に任命されました。任期は5分間です】
またか。半年に一度くらいの頻度で回ってくる、面倒な市民の義務だ。
続けて、レビューすべき政策変更リクエストのリストが表示される。僕はいつも通り、すべてを姉さんの判断に任せて「一括承認」しようとした。だが、ある項目が目に留まった。
『旧式通信端末(3G準拠)の製造ライン維持に関する差分断片の継続申請』
これだ。目の前の老人が求めている、古き良きガラケーの、最後の生命線。
『あら、チャンスじゃない。これ「非承認」にしちゃいなさいよ。そしたら、あんたの面倒も一つ減るでしょ』
姉さんの言う通りだ。これを非承認にすれば、古い規格は完全に断ち切られる。僕らは未来に進むべきなんだ。こんな不便なエミュレーションに付き合う必要はない。
僕は非承認ボタンに指を伸ばしかけた。その時、目の前の老人の、不安そうに揺れる瞳が見えた。この人にとって、この小さな機械は、世界と繋がるための唯一の道具なのかもしれない。
『……でもさ』
姉さんの声のトーンが、少しだけ変わった。
『あのじいさん見てると、あんたを思い出すわ。新しいものにビビって、結局いつものラーメン屋にしか行かないあんたにそっくり』
その言葉に、胸がチクリと痛んだ。そうだ。僕も、このおかしな世界の変化をただ受け流して、文句を言うだけだった。目の前の老人と、何も変わらないじゃないか。
僕は息をひとつ吐き、ゆっくりと端末を操作した。
「党」中央ドクトリンに基づく暗号アルゴリズム署名が完了する。僕が選んだのは、「承認」だった。
五分後、総理の任期は終わった。僕は老人に向き直り、深く頭を下げた。
「お客様、大変申し訳ありません。ですが、操作が一番近い後継機を一緒にお探しします。少しだけお手間をおかけしますが、私が責任をもってご説明しますので」
老人は目を丸くしていたが、やがて諦めたように、しかし少しだけ和らいだ顔で頷いた。
「…そうかい。じゃあ、頼むかな」
『へえ、やるじゃない』
視界の隅で、姉さんが少しだけ楽しそうに笑っていた。
『でも、どうするの? あんたが承認したせいで、来週も「アンテナ感度抜群!最新ガラケー入荷!」みたいなポップを作る羽目になるんだけど』
僕は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「まあ、それも仕事だからな」
世界の歪みは、僕の五分間でどうにかなるものじゃない。でも、目の前の小さな歪みと向き合うくらいは、許されるだろう。