電話帳の向こう、地図の折り目
──平成0x29A年03月24日 10:50
朝10時50分、私は治安維持ステーションの倫理検査室で、机の向かいに座った代理エージェントの顔を見つめていた。
「検査期間中ですから、ご指示はこちらが代わりにさせていただきます」
代理エージェントの声は合成音声だった。本来なら、私の亡き父・山田治の人格エージェントが、イヤホンを通じて指示をくれるはずだ。だが月1回の法定倫理検査中は、こうして人工的な声に従わねばならない。
「わかった。今日の巡回ルートは」
スクリーンに表示されたのは、昨日までの電話帳だった。古ぼけた紙製の、それだ。第十二地区の古い倉庫から出てきた遺物で、監視対象エリアの住所と電話番号が手書きされている。誰がいつのものか、誰も知らない。
「第四〜六ブロックの巡回。特に通報が多い地点を優先」
代理エージェントが指し示した地図は新しかった。AR付きの紙製地図で、自動翻訳イヤホン対応のビーコンが埋め込まれている。私がイヤホンを装着すれば、リアルタイムで目的地までのルート案内が耳に流れ込む。
「了解」
ステーション前の路面に出た。朝日が強い。
第四ブロックへ向かう途中、古い電話ボックスの前で足を止めた。ボックス内には、まるで使用可能であるかのような受話器が置かれていた。これも平成エミュの一環だ。実際には誰も使わない。だが誰かが定期的に清掃するから、そこにある。
イヤホンをまだ装着していない。代理エージェントの指示を待つのは嫌だった。父のいない指示は、指示ではなく、ただの命令だ。
手に持った電話帳を開いた。ページの片隅に、父の字で「ここに何かある」と書かれた地点があった。いつ書かれたものか、不明だ。数年前か、数十年前か。検査期間中だから、確認できない。
代わりに、AR地図を広げた。自動翻訳イヤホンのスイッチを入れると、合成音声が流れた。
「第四ブロック、西側。通報件数が増加しています」
そこは、父が電話帳に書き込んだ場所ではなかった。
私は地図を畳み、電話帳をポケットに入れた。イヤホンは耳に残したまま。代理エージェントの声を聞きながら、父の字が示した座標へ歩き始めた。
通報もなく、誰もいない路地。電話帳の欄外には、「山田治」と署名がある。下には「03-****-****」。番号は途中で擦れて見えない。
合成音声は、ここにはなにもないと言っている。
父の電話帳は、今も私のポケットで、軽く息をしているようだ。検査期間は、あと4時間25分。その間、父の指示は届かない。私だけが知っている。
地図を折り直した。向かう先は、父の書き込みが示す座標だ。通報がなくても、指示がなくても、私は行く。
なぜなら、倫理検査を受けるのは、エージェントではなく、私たちだからだ。