砂嵐の向こうの署名
──平成0x29A年07月08日 07:30
「おはよう、翔太。またウォークマンの充電忘れてるわよ」
姉の佳苗の声が、側頭葉に直接響く。寝起きの頭には少しばかり騒がしい。
平成0x29A年7月8日、午前7時30分。集合住宅の窓からは、システムが生成した「古き良き夏」の蝉時雨が、スピーカー越しに降り注いでいた。
僕はMDサイズのカートリッジをウォークマンの側面に差し込み、ノイズ混じりのシティーポップを再生した。このザラついた音質が、エミュレートされたこの街にはよく似合う。
「いいんだよ。今日は燃えないゴミの日だから、さっさと済ませたいんだ」
クローゼットの奥から、実家から持ってきた数本のVHSテープを引っ張り出した。ラベルには『1998年・バラエティ特番』と掠れたマジックで書かれている。中身はとっくにナノストレージに置換されているはずだが、この黒いプラスチックの塊は、今の薄っぺらな端末よりも妙に重く感じられた。
一階の共同ゴミ捨て場、資源回収ポストに手をかざす。
だが、いつもなら「おはようございます、野上様」と愛想を振りまくはずのAI秘書が、聞いたこともない無機質な警告音を吐き出した。
『照合エラー。お客様の市民ID:NGM-092は、現在「社会安定ドクトリン」への差分干渉により、全権限が一時凍結されています』
「……は?」
思わず声が出た。視界の端で、佳苗のホログラムが怪訝そうに眉をひそめる。
「ちょっと、翔太。あんた何かやった? 昨日の仕事でミスしたとか、そういうレベルじゃないわよ、これ」
「心当たりなんてないよ。ただの仕分け作業員だぞ、僕は」
僕は慌ててARゴーグルを装着し、「バーチャル役所」の緊急窓口へ接続した。視界が切り替わり、90年代のオフィスを模したグレーのカウンターが現れる。担当者のアバターは、野暮ったい事務服を着た無表情な女性だった。
「あ、あの。IDが凍結されてるんですけど。ゴミすら捨てられない」
「確認します……あ、野上翔太様ですね。本日午前4時12分、第0x88C内閣ユニットにおいて、5分間の内閣総理大臣に選出されていますね」
「え? 寝てましたけど。何かの間違いじゃ」
「その際、あなたは『ブロックチェーン維新:所得再分配アルゴリズムの解体』という政策変更リクエストに対し、承認の閣議決定署名を行っています。これが党中央のドクトリンと致命的な不整合を起こしたため、即座に市民権限がティア4まで剥奪されました」
背筋が凍った。佳苗が僕の耳元で囁く。
「嘘よ。この子、その時間はイビキかいて寝てたわ。ログを見て!」
「ログ上では、野上様の生体認証を完全にクリアしています。エージェント様も同行し、署名を補佐した記録が残っていますが?」
そんなはずはない。佳苗は僕の脳内に同期している。僕が寝ていれば、彼女も休眠状態のはずだ。
いや、待て。僕は足元のVHSテープを見た。
昨夜、この古いテープを再生しようと、ジャンク品のデッキに差し込んだ。その直後の記憶が、妙に白く、砂嵐のように欠落している。
「ねえ、翔太……」
佳苗の声が、震えている。
「私のログ……午前4時から5分間だけ、不自然に欠損してる。何かに、上書きされてるわ」
バーチャル役所の事務員が、一瞬だけ、歪んだ笑みを浮かべたように見えた。
「ご安心ください。凍結期間は、次回のヘゲモニー交代まで。あと80年ほどお待ちいただければ、再審査が可能です」
視界が強制終了され、僕は蒸し暑いゴミ捨て場に引き戻された。
手の中のVHSテープから、カチカチと、聞いたこともないような微細な駆動音が聞こえる。
まるで、誰かがこの黒い箱の中から僕の人生を遠隔操作し、たった5分間で世界を壊したかのように。
蝉の声が、一瞬だけ、悲鳴のようなハウリングを起こして止まった。