ファミコンカセットと、雨垂れの法廷

──平成0x29A年02月27日 05:50

午前五時五十分。まだ空は鉛色で、高層農業プラントの巨大なシルエットが、まるで墓標のように街を覆っていた。

「倫理検査、問題なし、と。代理エージェント『ヨシダ』、任務完了です」

耳元のインプラントから、無機質な声が響いた。少しだけ、ホッとする。母さん、カオリさんの人格エージェントが法定倫理検査に入って、丸三日。その間、父さんの人格エージェント、ヨシダさんが代わりを務めてくれていた。

「ご苦労様、ヨシダさん。母さんには、またしばらくお世話になるよ」

『了解した。君の判断は正しい。カオリは優秀なエージェントだ。一時的な休止は、より良い再稼働のためのプロセスにすぎない』

父さんの声は、いつも落ち着いている。母さんの軽やかな声とは対照的で、それが逆に、母さんの不在を際立たせる。

俺は、第9地区の治安維持ステーション、第17監視塔の最上階にいた。窓の外には、昨日から降り続く小雨が、ビル群を洗い流すように流れていく。この小雨も、プラントの温室効果で調整されているのかもしれない。いや、そんなはずはないか。

デスクの上には、古びたファミコンカセットが転がっていた。『ゼビウス』。子供の頃、父さんと一緒に徹夜で遊んだ記憶が蘇る。今はもう、ほとんど遊ぶ人もいないだろうに、なぜか捨てられずに取ってある。横には、最新式のサブスク決済端末。毎月、プラントからの供給品代金が、自動的に引き落とされていく。

「定時巡回開始。異常なし」

インプラントからの通知音。俺は立ち上がり、銃をホルスターに収め、監視塔を出た。階段を降りながら、壁に埋め込まれたアナログ時計を見る。午前六時。もうそんな時間か。

「お、今日はお早いっすね、佐々木さん」

一階の受付にいた、新人監視員のタナカが声をかけてきた。

「おう、タナカ。母さんのエージェント、無事検査終わったよ」

「ああ、それは良かった。カオリさん、いつもキレッキレですもんね。父さんの代理も、もちろん悪くなかったですけど、やっぱりカオリさんじゃないと、こう…」

タナカは言葉を詰まらせ、困ったように笑った。俺は、ただ頷いた。母さんの、あの鋭い洞察力。事件の核心を突く、あの鮮やかな判断。父さんのヨシダさんは、確かに正確で、冷静で、論理的だった。でも、母さんのような、人の心の機微に触れるような、温かい「何か」は、どうしたって持っていなかった。

「で、今日はどちらへ?」

「12区の、例の件。ちょっと確認しに行くだけさ」

「ああ、あの、深夜の騒音問題っすね。なんか、また新しいシステムが導入されたとかで、調整がうまくいってないみたいで…」

タナカは、指先で空中に何かを操作する仕草をした。AR端末で情報を見ているのだろう。俺は、ただ、窓の外の雨を見つめた。

父さんが、ヨシダさんとして、母さんの代わりに俺を支えてくれている。その事実だけは、確かにそこにある。けれど、母さんが帰ってきた時、父さんのヨシダさんは、また父さんに戻るのだろうか。それとも、母さんの記憶の断片だけを、静かに抱えて、消えてしまうのだろうか。

ファミコンカセットの冷たさと、サブスク決済端末の無機質な光。アナログ時計の秒針が、静かに時を刻む。雨は、まだ止みそうになかった。

「父さん、母さんが帰ってきたら、また一緒にゼビウス、できるかな」

誰に言うでもなく、呟いた。耳元のインプラントは、ただ静かに、俺の言葉を拾っていた。