搬入口の朱肉と磁気テープ

──平成0x29A年 日時不明

ウォークマンの再生ボタンを押し込むと、ヘッドホンからノイズ混じりのギターイントロが流れた。カセットテープ特有の、音が揺らぐ感覚。九〇年代のミリオンヒット曲だそうだが、俺には単なる労働のBGMだ。

「浩二、三番レジの無人機がまた詰まってるわよ」

右耳のイヤホンから、母さんの声がした。亡くなって五年になる元銀行員の母・律子の人格エージェントだ。俺はバックヤードの薄暗い通路で、積まれた段ボールの山を避けながらモニターを覗き込んだ。

「センサーの汚れだろ。客がエコバッグを押し付けすぎなんだ」

モニターには、セルフレジの前で立ち尽くす客の背中が映っている。俺は手元の操作盤を叩き、リモートで赤色灯を消した。省人化レジが普及して久しいが、結局こうして裏で人間が尻拭いをしている。平成の終わり頃から何も変わっちゃいない。

『配送車、到着。搬入口ヲ、開放シテクダサイ』

無機質なアナウンスが響く。俺はウォークマンを一時停止し、腰のベルトからガラケーを抜いた。二つ折りのボディをパカっと開き、搬入口のセキュリティシステムにかざす。赤外線ポートが点滅し、重たい鉄扉がガガガと音を立てて持ち上がった。

外には、のっぺりとした流線型の自動運転シャトルが停まっていた。運転席には誰もいない。ハンドルだけが微かに動いている。俺はガラケーの画面で荷下ろし指示を送ろうとした。

「待って、浩二。今日から『ドクトリン改正』の適用日よ」

母さんの声が鋭くなった。
「ああ、忘れてた」

俺はシャトルの荷台から吐き出されたコンテナを受け取ると、端末操作ではなく、胸ポケットから「紙の束」を取り出した。複写式の伝票だ。

最近、党ドクトリンのアルゴリズムが「デジタル署名の飽和」を懸念し、重要物流の受領には「物理的な自筆署名と捺印」を義務付け始めたのだ。アナログ手続きの復権。時代逆行も甚だしいが、暗号解読が進みすぎた今、物理的なインクの染みこそが最強の認証だという理屈らしい。

自動運転シャトルの側面から、小さなアームが伸びてきた。その先端にはカメラがついている。俺が伝票にボールペンを走らせる様子を、じっと見つめている。

「字が汚いわよ。もっと丁寧に」母さんが小言を言う。
「うるさいな。読めりゃいいんだよ」

朱肉にハンコを押し付け、伝票の所定欄に叩きつける。湿った音がした。シャトルのカメラがその印影をスキャンし、ウィーンと満足げな音を立ててアームを引っ込めた。

その瞬間、視界が白く反転した。

『第49281内閣ユニット、認証』

来た。ランダム選出の総理大臣タイムだ。俺の意識はバックヤードから引き剥がされ、仮想の閣議室へと接続される。目の前に無数の政策変更リクエストが流れてくる。

今回の議題は「生体認証精度の向上に関する物理痕跡の活用について」。

要するに、今俺がやったような「手書き」や「捺印」のデータを、筆圧やインクの滲み具合まで解析し、個人の精神状態や健康状態を把握するために使うという承認要請だ。

「……これ、承認していいの?」俺は心の中で母さんに問う。
「形式要件は満たしているわ。ドクトリンとの整合性も98パーセント。拒否する理由がないわね」

母さんの声は事務的だ。銀行員時代、書類の不備を許さなかった彼女らしい判断。だが、俺は添付された参考資料の隅にある、小さな注釈に目が止まった。
『対象者のストレス値が規定を超えた場合、労働適性ランクを自動降格させるトリガーとする』

俺の手書き文字は、さっき母さんに「汚い」と言われたばかりだ。苛立ちや疲れが、文字に滲み出ていたとしたら?

「浩二、あと十秒よ」

俺は迷いながらも、承認ボタンを押した。どうせ俺一人が拒否しても、並行処理されている他の数十万の内閣ユニットが承認すれば可決される。それに、この国のシステムに逆らうのは面倒だ。

視界が戻る。バックヤードの冷たい空気が肌に触れた。

自動運転シャトルは音もなく発車し、夕暮れの道路へと滑り出していく。俺の手元には、カーボン紙で複写された伝票の控えが残っていた。

改めてその文字を見る。乱れた筆跡。掠れたハンコの朱色。それはまるで、何かの診断書のように見えた。

「……次からは、もう少し丁寧に書くか」

俺は呟き、再びウォークマンの再生ボタンを押した。テープが回転し、キュルキュルという摩擦音と共に、古い歌が流れ出す。

ふと、バックヤードの奥にある廃棄食品の山が目に入った。賞味期限切れの弁当や惣菜。それらが積まれた姿が、自分たちのような「効率の悪い人間」の末路に見えて、俺はボリュームを最大まで上げた。

耳元で母さんが何か言った気がしたが、ノイズに掻き消されて聞こえなかった。