通帳残高と、折れた電波のワルツ

──平成0x29A年12月01日 22:20

 十二月の夜は、研修棟の暖房が二十二時で切れる。

 私はジャージの上にフリースを重ね、机に広げた通帳を睨んでいた。紙の通帳。研修課程の実習で使う、内閣ユニット模擬決裁用の資金移動記録帳だ。印字がドットインパクト式で、数字の8と3の区別がつかない。

「寒いなら共有バッテリーからヒーター引っぱりなよ、エミ」

 エージェントの声が耳元で鳴る。父の声だ。正確には、三年前に心臓発作で逝った父・日下部哲夫の人格コピー。生前は区の職業訓練校で簿記を教えていた人で、こういう帳簿仕事になると急に生き生きする。

「バッテリー、廊下のステーションまで取りに行くの面倒なんだよ」

「面倒がって凍えるのは馬鹿のやることだ」

 父は生きていた頃もこうだった。正論を、少しだけ嬉しそうに言う。

 私は折りたたみ携帯を開いた。蓋の内側に小さなサブディスプレイ、開くとメインの液晶。研修生には端末の選択肢がなくて、支給されたのがこれだった。ただし妙なことに、背面のカメラがAR対応で、通帳にかざすとドクトリン署名のハッシュ値が浮かぶ。90年代の筐体に10年代の機能が無造作に詰まっている。誰もおかしいと思わない。私も、言われるまで思わなかった。

 画面にハッシュ値が並ぶ。模擬閣議で承認した政策変更リクエスト三件ぶんの署名。これを通帳の手書き照合欄と突き合わせて、明朝の提出に備える。それが今夜の課題だった。

 二件目で、止まった。

「お父さん、これ」

「ん」

「署名のプレフィクスが違う。0xA3じゃなくて0x5Fになってる」

 父が沈黙する。計算しているのだ。生前の癖そのままに、少し唸ってから答えが出る。

「演習用の鍵束が、第402期のドクトリン改訂に追従してないな。古い鍵で署名してる」

「つまり、模擬決裁が通らない?」

「通らないね」

 研修棟のキッチンから、炊飯器が「炊きあがりました」と喋った。スマート家電は律儀だ。誰かが夜食の米を仕掛けたらしい。炊飯器は続けて室温を検知し、「暖房が停止しています。共有バッテリーの接続を推奨します」と付け加えた。余計なお世話だ。

 私は携帯を閉じ、また開いた。癖になっている。パチン、パチン。

「研修主任に報告する?」

「二十二時過ぎだよ。主任もう寝てる」

「じゃあ自分で鍵を差し替えれば」

 父は軽く言うが、それは暗号アルゴリズムの内部に手を入れるということだ。半ば公然と解読されているとはいえ、研修生が勝手にやれば始末書では済まない。

「お父さん、生きてた頃、簿記の試験で鉛筆が折れたらどうしてた?」

「予備を持ってく」

「予備がないときは」

「隣の奴に借りる。——ああ、そういうことか」

 同期の山根が隣室にいる。彼女は別の内閣ユニット演習に割り当てられていて、鍵束が違う。もし山根のユニットの鍵プレフィクスが正しければ、照合ロジックの差分だけ借りて、自分の署名を再生成できる。ルール違反すれすれだが、演習の趣旨——「リソースを融通しあう統治」——には合致している、と思いたい。

 廊下に出た。ついでに共有バッテリーをステーションから一本抜く。ずしりと重い円筒形、充電率73%。これで小型ヒーターが朝まで保つ。

 山根の部屋をノックすると、彼女は通帳を枕に突っ伏していた。

「鍵、貸して。プレフィクスだけ」

「……0x5Fでしょ。うちもそう。全員同じ旧鍵配られてるっぽい」

 私は廊下に立ったまま、バッテリーの重さを腕に感じていた。

 携帯が震えた。開くと、研修管理システムからの通知。

〈本演習における署名鍵の不一致は、意図された課題です。対処方針を800字以内で記述し、明朝08:00までに提出してください〉

 父が小さく笑った。簿記教師特有の、生徒が引っかかったときの笑い方だ。

「予備の鉛筆は、最初から箱に入ってなかったわけだ」

 私は携帯を静かに閉じた。パチン。

 炊飯器がもう一度、保温を開始しました、と言った。米だけが、今夜ちゃんと完了している。