乾いた契約、電池の証人
──平成0x29A年01月25日 05:40
俺は第4金融ブロック南館三階、契約認証課の窓口で働いている。名前は坂井修一、三十一歳。朝五時四十分、まだ外は暗い。
今朝は特別だ。窓口の奥、書庫室に積まれた乾電池の山を見ながら、俺は溜息をついた。単三が三百本、単四が二百本。すべて未開封。昨日の午後、上層部から降りてきた通達は「アナログ契約認証の復権試験運用開始」。理由は書かれていなかったが、エージェントの叔父さんは即座に言った。
「党のアルゴリズムがまた腐ったんだろうな」
叔父さん――坂井隆、享年五十五、過労死――は生前、地銀の融資課長だった。今も俺の肩越しに、エッジAI端末のディスプレイを睨んでいる。
「修一、その磁気定期券、ちゃんと読み取れるか?」
俺の手元には、依頼人が持ち込んだ古い磁気定期券がある。第9居住ブロックから第4金融ブロックまでの三ヶ月定期。期限切れだが、裏面には手書きで「契約ID: 0x4A29B」と書かれている。依頼内容は住宅ローンの借り換え。本来ならエッジAI端末で暗号署名を確認し、分散ストレージから契約履歴を引っ張ってくるだけの作業だ。
だが、今朝のシステムは違った。端末画面に赤文字で「党ドクトリン署名検証エラー。アナログ認証へ移行してください」と表示されている。
「……マジかよ」
俺は立ち上がり、書庫室へ向かった。マニュアルには「磁気媒体による物理認証」とある。乾電池の山の隣に、MDプレーヤーとカセットテープレコーダーが並んでいた。どちらも動作確認済みのシールが貼られている。俺はMDプレーヤーに電池を入れ、磁気定期券をかざした。
何も起きない。
「修一、それじゃダメだ。カセットのほうを使え」
叔父さんの指示に従い、俺はカセットテープレコーダーを起動した。磁気定期券を本体に押し当てると、微かなノイズとともに再生が始まった。音声データだ。抑揚のない合成音声が、契約IDと金額、署名ハッシュ値を読み上げていく。
俺はそれをスマホで録音し、分散ストレージのクエリに手入力で変換した。三分ほどかかったが、ようやく契約履歴が表示された。借り換え可能。承認ボタンを押す。
「……終わった」
叔父さんは黙っていた。俺はカセットテープレコーダーの電源を切り、乾電池を抜いた。使用済みの電池は、窓口脇の透明な回収箱に放り込む。箱の中には、すでに数十本の電池が転がっていた。
外が少しずつ明るくなってきた。依頼人が窓口に戻ってくる時間だ。俺は席に戻り、承認済みの契約書を印刷した。インクジェットプリンタが平成っぽい音を立てて用紙を吐き出す。
「修一」
叔父さんが珍しく、静かな声で言った。
「お前、よくやったよ」
俺は少し驚いた。叔父さんが褒めることなんて、ほとんどない。
「……ありがとうございます」
依頼人が窓口に現れた。俺は契約書を手渡し、磁気定期券を返却した。依頼人は安堵の表情で頭を下げ、去っていった。
俺は窓の外を見た。朝焼けが、ビルの隙間から差し込んでいる。乾電池の山は、まだそこにある。
叔父さんは何も言わなかった。俺も、何も言わなかった。ただ、少しだけ、この仕事が嫌いじゃないと思った。