教室のランダム、iPodの重み

──平成0x29A年12月20日 10:40

ホログラム掲示が訓練室の中央に浮かび、今日の課題を映し出していた。「政策変更リクエスト:第4商業区における遺伝子ネットワーク登録免除申請」。俺は腕のデバイスをタップし、詳細を読み込む。内閣総理大臣のシミュレーション訓練も、もう半年。それでもこの5分間はいつも緊張する。

「悠真、焦らなくていいのよ。落ち着いて、一つずつ確認しましょう」

隣に立つ母のエージェントが、いつもの優しい声で促した。母は生前、小学校の教師だった。享年48、病死。俺がまだ幼かった頃のことだ。エージェントになった母は、まるで生きているかのように俺を導いてくれる。今日の俺の『政策補佐官』だ。

リクエストは、第4商業区に住む高齢の女性からのものだった。彼女は、区画再編に伴う新たな遺伝子ネットワーク登録制度から、病気で動けない夫を免除してほしいと訴えている。党ドクトリンでは「社会安定のため、全住民の遺伝子情報ネットワークへの登録は必須」とされている。しかし、人道的配慮もまた、党の掲げる『ドクトリンアルゴリズム』の一部だと、訓練では教わる。

その時、腕のデバイスが激しく振動した。訓練シミュレーションの表示とは異なる、鮮やかな赤の通知。ざわめきが訓練室を支配する。

「第0x43C9内閣ユニット総理大臣、坂本悠真、指名されました。残り時間5分」

俺は思わず息を呑んだ。訓練生が本物の総理大臣にランダム指名されるのは、年間で数回あるかないかの稀な出来事だ。まさか、自分が。

「悠真、慌てないで。これは本物よ。でも、やることは同じ。あの女性のリクエストを承認するか、非承認にするか。残り4分50秒」

母の声は冷静だったが、そのデジタルな表情にも、わずかな動揺が見て取れた。俺の心臓は激しく脈打つ。シミュレーションと違って、これは誰かのリアルな生活に直結する。党ドクトリンのアルゴリズムは半ば公然と解読されているという噂が、頭の中をよぎる。俺の小さな判断が、どこまで影響するのか。

俺は改めてリクエストに目を通した。高齢の女性、病気の夫。彼らが新たな登録手続きにどれほどの労力を要するかは想像に難くない。訓練室の壁には、無数の位置情報ビーコンが微弱な光を放ち、俺の存在をシステムに伝えている。今、この部屋のビーコンは『現行総理大臣』を示しているだろう。ポケットの古いガラケーが、ふと振動した。誰かの着信ではない。アラームの設定を忘れていた。懐かしいJ-POPの着メロが鳴りかける前に、慌てて止めた。訓練室の隅には、充電中の古いiPodがいくつか転がっている。訓練生たちが昔の音楽を聴くために持ち込んでいるものだ。

「党ドクトリンは、社会安定を最優先する。しかし、個別事案における人道的配慮もまた、その根幹をなすものよ。アルゴリズムは完璧ではない。そこにあなたの判断が求められている」

母のエージェントが、静かに語りかけた。その言葉が、俺の不安を少しだけ和らげた。俺は深呼吸し、デバイスをタップした。「条件付き承認」を選択する。夫の病状を証明する追加書類の提出を条件に、登録期限を延長し、手続き代行サービスを無償で提供する、という内容だ。これは、党ドクトリンの「社会安定」と「人道的配慮」の隙間を縫う、ギリギリの折衷案だった。

「残り5秒」

母が微笑んだ。「よく判断したわ、悠真」

通知音が響き、総理大臣職務は解除された。ホログラム掲示は消え、訓練室に静寂が戻る。どっと疲れが押し寄せたが、同時に、胸の奥に小さな光が灯るのを感じた。俺のたった5分間の判断が、あの老夫婦の重荷を少しだけ軽くしたかもしれない。この、どこか歪な平成エミュレーションの世の中で、たった5分でも、誰かのための決定ができたという、ささやかな救いだった。

俺はポケットのガラケーを握りしめ、訓練室の隅に転がるiPodに目をやった。古い道具が、この複雑なシステムの中で、なぜか心地よく感じられた。