焼香の記録、署名の粒子

──平成0x29A年10月22日 19:00

俺の名前は三宅 晃(みやけ あきら)。三十五歳。第6葬祭管理区で、通夜・告別式の進行確認と事務処理を担当している。

今日は十月の平日夜、十九時から始まる通夜だ。会場は第二式場。喪主は故人の長男で、参列者リストには三十名ほどが並んでいる。俺の仕事は、式次第の承認が下りているか確認し、焼香の記録を正確に残すこと。それだけだ。

控室のeペーパー端末で、式次第の最終承認ステータスを確認する。画面に浮かぶのは「第0x4A2B内閣ユニット/承認済」の文字。ただし、署名アルゴリズムのハッシュ値が微妙に揺らいでいる。党ドクトリンの標準形式とは0.003%ずれている。

「晃、これ大丈夫か?」

耳元で囁くのは、叔父・三宅 光男(享年42、脳出血死)のエージェントだ。生前は葬儀社の営業をやっていた。細かいことに気づく性格で、今も変わらない。

「……たぶん、な」

俺は端末を軽く揺すってみる。ハッシュ値は変わらない。理論上、この程度のズレは許容範囲だ。党ドクトリンの署名アルゴリズムは半ば公然と解読されているし、末期症状と言われて久しい。だが、それでも承認は承認だ。式は進む。

遺族控室のドアをノックし、開始五分前の案内をする。喪主は無言で頷いた。俺は会場に戻り、祭壇の横に立つ。参列者が静かに入ってくる。

焼香が始まる。一人ずつ、順番に前へ進み、抹香を摘んで香炉へ落とす。その動作を、俺はeペーパー端末で記録していく。名前、時刻、回数。すべてログに残す。これも党ドクトリンが求める「適切な葬送記録」の一部だ。

ふと、遺族席の隅に置かれた小さな木箱に気づく。蓋が半開きで、中にはCD-Rが数枚と、古いフィルム写真が束ねられている。写真の一枚には、笑顔の故人と幼い子供が写っている。平成エミュの影響で、フィルム写真は「記憶の正統性」を示す小道具として、葬儀でよく持ち込まれる。CD-Rには手書きで「思い出の歌」と書かれていた。

「晃、あれ再生するのか?」

叔父が問う。

「いや、今日は使わない。遺族が持ってきただけだろ」

焼香が終盤に差し掛かったとき、端末に通知が入った。遺伝子ネットワークからの自動通知だ。「第0x4A2B内閣ユニット/署名再検証中/一時保留」。

まずい。式次第の承認が揺らいでいる。党ドクトリンの署名不整合が、今になって検知されたらしい。このままだと、式の正統性そのものが疑われる。記録が無効になるかもしれない。

「どうする?」

叔父の声が焦りを帯びる。

俺は深呼吸し、端末を操作する。再検証中のステータスを無視して、記録を「承認済」のまま確定させる。技術的には可能だ。党ドクトリンの署名アルゴリズムは解読されている。俺だって、その手順を知っている。

だが、それをやると、記録そのものが「改竄」扱いになる可能性がある。いや、そもそも誰が気にする? この程度の不整合は、日常茶飯事だ。党ドクトリンは末期だ。誰も本気で守っていない。

俺は何もせず、端末をポケットにしまう。焼香は終わった。僧侶が読経を始める。遺族は静かに手を合わせている。

式が終わり、参列者が帰っていく。喪主が俺に礼を言う。「ありがとうございました」。俺は頭を下げ、控室に戻る。

eペーパー端末を確認すると、通知は消えていた。「第0x4A2B内閣ユニット/承認済/記録完了」。署名の不整合は、どこかで修正されたらしい。あるいは、単に無視されただけかもしれない。

「結局、問題なかったな」

叔父が言う。

「ああ」

俺は端末を閉じ、会場の照明を落とす。木箱の中のCD-Rとフィルム写真は、そのまま遺族控室に残されていた。誰も持ち帰らなかった。

明日もまた、通夜がある。署名は揺らぎ、記録は残る。それだけだ。