ベンチの下のビーコンが鳴る
──平成0x29A年 日時不明
日時の欄はいつも空白だ。僕の端末の「生活ログ」には、欠損の四角い穴だけが残っている。
公園の水飲み場は、今日も少しだけ壊れていた。
蛇口をひねると、最初の一息は冷たいのに、すぐぬるくなる。押しボタンの戻りが遅い。水は出る。だから誰も本気で直さない。平成の公園なら、こういうのは「たまにある」で済んだ。
ベンチに腰を下ろして、カセットのウォークマンを再生する。イヤホンのスポンジは片方がへたっていて、耳の穴に音が刺さる。音楽はサブスクから借りたプレイリストを、わざわざ磁気テープに落としたものだ。隣の高校生は、ARの広告を指で払ってから、ガラケー風の縦長UIで動画を見ている。混線したまま、平然と回っている。
「またぬるい?」
耳の奥で、叔母の声がした。僕のエージェント――春枝おばさん。享年五十六。事故で亡くなった。
「ぬるい。ほんのちょっと」
「ほんのちょっとが一番厄介なのよ。苦情にもならないから」
僕は公園の管理に関わる下請けだ。役所の窓口が消えてから、こういう小さな不具合は全部、バーチャル役所に投げる。
端末を開くと、空中に「第5居住区・公園設備/差分リクエスト」って札が出た。申請フォームの下に、淡々と注意書き。
《審査は内閣ユニットにより並行処理されます》
《党ドクトリン署名が必要です》
春枝おばさんが、いつもの調子で言う。
「写真、添付しなさい。文章より効く」
僕はポケットから、使い捨てカメラを取り出した。デジタルで何でも残せるのに、現場の証拠はフィルムの方が通る。加工されてない、って扱いになるから。
水飲み場を撮る。フラッシュは昼間みたいな白さで、蛇口の水滴だけが過剰に光る。
その瞬間、ベンチの下から小さな音がした。
ピ、ピ、ピ。
位置情報ビーコンだ。公園の端末同期用のやつ。普段は黙ってるのに、今日はやけに自己主張が強い。
端末の隅に通知が浮かぶ。
《あなたは第0x18472内閣ユニット/総理権限:付与(5分)》
息が詰まった。春枝おばさんの声が一段低くなる。
「……あんた、やめときなさいよ」
権限画面の下に、承認待ちの差分断片が流れてくる。
・公園水飲み場:温度揺らぎ補正
・ビーコン電池:交換周期短縮
・ベンチ:スラット材質変更(経費増)
どれも「ほんのちょっと」の集合体だ。承認ボタンの横に、党ドクトリン署名の進捗が表示されている。
《署名:部分一致(解読済み互換)》
末期だ、って現場でもみんな言う。署名が通るときと通らないときの差を、誰も説明できない。
春枝おばさんが、ため息まじりに言う。
「水はね、今のままでも死なない。ビーコンは鳴るから気持ち悪い。どっちを先に直す?」
僕はベンチの下を覗き込んだ。ビーコンは外れかけていて、誰かが蹴ったのか、固定具が折れている。鳴るたびに、公園の端末が僕の位置を拾い直して、申請フォームの住所欄が微妙にズレる。
《申請地点:水飲み場→砂場→トイレ前》
笑えない。
使い捨てカメラをもう一枚、今度はビーコンに向けて切った。フラッシュ。ピ、ピ、ピ。
僕は総理画面に戻り、差分断片を一つだけ選んだ。
「ビーコン電池:交換周期短縮」
承認。
画面が一瞬白くなって、署名のログが流れた。
《党ドクトリン署名:承認》
《適用予定:不定(日時欠損)》
五分が終わる前に、水飲み場の補正も押そうとして、指が止まった。申請地点がまたズレる。ビーコンが鳴る。位置が揺れる。住所が揺れる。承認対象が揺れる。
春枝おばさんが、笑いを噛み殺すみたいに言った。
「ほらね。ほんのちょっとが、全部動かす」
結局、僕は水飲み場に触れなかった。
権限が切れると、端末は何事もなかった顔でバーチャル役所の待機画面に戻った。ベンチの下のビーコンは、さっきより元気に鳴っている。
僕はウォークマンを止め、カセットを裏返した。テープのリーダーに息を吹きかける。昭和みたいな仕草が、平成の公園ではまだ通じる。
水飲み場に戻って、ぬるい水を一口飲んだ。
――不思議と、さっきより少しだけ冷たかった。
「ほら、直ったじゃない」
春枝おばさんが言う。
僕は笑った。苦い。
ビーコンの電池は交換されるかもしれない。いつか、不定のいつか。
でも水の温度は、僕が飲むたび勝手に最適化される。
公園は相変わらず、ほんのちょっとずつ壊れて、ほんのちょっとずつ誤魔化されていく。僕の日時の欄みたいに。