連絡網の末端、よく晴れた午後
──平成0x29A年 日時不明
エレベーターの保守点検は、たいてい午後に入る。
築三十年超の集合住宅棟、B棟からD棟まで八基。今日の担当はC棟の二基で、片方は去年から巻上機の軸受けが鳴っている。私はいつものように工具箱を開けて、油圧シリンダーの目視確認から始めた。
ポケットのガラケーが震えた。着メロが鳴る。「LOVEマシーン」の冒頭三小節、亡くなった祖母が生前いちばん好きだった曲を、エージェントの初期設定でそのまま使っている。
「真悟、C棟三号機の記憶補助モジュール、更新日いつだったか覚えてる?」
祖母の声だ。正確には、祖母——須藤ハナの人格を移植したエージェントの声だ。ガラケーのスピーカーから出ると、どうしても少し割れる。
「去年の十月。半年前」
「そうかい。でもね、ログ見ると前回分の差分パッチが当たってないよ。私の方で照合したけど、署名鍵が古いまま」
記憶補助モジュールというのは、エレベーターの運行記憶を保持する部品で、制御基板の判断履歴をすべて蓄積している。ファームウェア更新のたびにドクトリン署名が要る。要るのだが、最近はその署名の検証自体がほぼ形骸化している。鍵が古くても通る。通るから、誰も気にしない。
私は機械室の壁に据えつけられた空中ディスプレイを起動した。十五年前の型で、映像が少し滲んで空気中に浮く。そこに記憶補助の更新ログを呼び出すと、確かに差分パッチの適用欄が空白だった。
「ばあちゃん、これ適用しないとまずいかな」
「まずくはないよ。動くことは動く。ただ、三号機がドアの開閉タイミングを学習した分が全部消えてる。住民の乗降パターンも初期化されてるから、四階の車椅子の方のところで長く開ける設定も飛んでる」
それは困る。四階の前田さんは毎朝九時にこのエレベーターを使う。
私はパッチの手動適用を試みた。空中ディスプレイにガラケーを近づけると赤外線でペアリングされ、ファイルが転送される。祖母のエージェントが署名検証を代行してくれるのだが、途中で画面に別の通知が割り込んできた。
「C棟連絡網 更新のお知らせ」
学校の連絡網だった。C棟に住んでいる児童の保護者向けに、小学校から回ってくるやつだ。なぜ私の端末に届くのかといえば、このビルの保守端末が連絡網の末端ノードに登録されたままだからだ。何年も前から。外し方を誰も知らない。
連絡網の文面が空中ディスプレイに浮かんだ。「運動会の日程変更について」。文章の右下に小さく「生成AI校正済み」のマークがついている。昔は先生が手書きしていたらしいが、今はAIが誤字脱字を直し、敬語の統一まで済ませてから配信される。それでも文末に「よろしくお願いいたします。」と「よろしくお願い致します。」が混在しているのは、校正のあとに誰かが手で書き足したのだろう。
「真悟、パッチ通ったよ」
祖母の声で我に返った。空中ディスプレイの署名欄に、見慣れた長い文字列が流れている。ドクトリン署名。半ば解読済みのアルゴリズムが吐き出す、誰のものでもない承認の印。
「ありがとう、ばあちゃん」
「前田さんの分、ちゃんとドア開閉の設定も戻しておいたからね」
私は空中ディスプレイの電源を落とした。映像がしぼんで消えると、機械室にはモーターの低い唸りだけが残った。
ガラケーの画面に目を落とす。連絡網の通知がまだ表示されている。運動会は来週の土曜日に延期。雨天時はさらに翌日曜日。
私には子供はいない。この連絡網を受け取る理由は、本当はどこにもない。
でも末端のノードから自分を外す手続きは、たぶん明日もしない。祖母のエージェントが毎回律儀に読み上げてくれるこの連絡網が、機械室の午後をほんの少しだけ賑やかにしてくれるからだ。
工具箱を閉じて、次のエレベーターに向かう。着メロがまた鳴った。今度は閣議の通知だった。
「第0x7A2F1内閣ユニット、内閣総理大臣に任命されました。任期:五分間」
祖母が笑った。「忙しいねえ」
「ばあちゃん、承認でいい?」
「差分、見たよ。公園の遊具点検頻度を月二回から月一回に変更。まあ妥当じゃない」
私は承認ボタンを押した。五分もかからなかった。