感熱紙の微熱、あるいは署名なきデカルコマニー

──平成0x29A年12月13日 02:10

 深夜二時。第九娯楽ブロックの端にある『ハイテクランド・エデン』は、電子音の墓場のような静けさだった。

「兄貴、またそれやってるの? 肺に悪いよ」
 網膜に投影された結衣の声が、少し呆れたように響く。傍らに立つ彼女の透過レイヤーは、平成初期の女子高生風の制服を着ていた。十七年前に死んだ妹の、生前のパーソナリティを模倣したエージェントだ。

「これが一番確実なんだよ。今のエミュレータは、こういう『不純物』まで再現しきれていないからな」
 僕は手に持ったファミコンカセットの端子部に、勢いよく息を吹きかけた。フッ、フッ。埃を飛ばすこの原始的な儀式こそが、この「平成〇x二九A年」という歪な時代における、最も信頼できる保守点検だった。カセットをスロットに差し込むと、ブラウン管を模した液晶モニタに、八ビットの粗いタイトル画面が映し出された。

 店の外では、公共ARサインが「歳末ドクトリン遵守月間」の文字を空中に躍らせている。党の暗号アルゴリズムが安定を維持するために選んだこの「平成」という様式美は、九〇年代のプリクラ機と二〇一〇年代の定額制ストリーミングサービスが、破綻することなく同居する奇妙な均衡を保っている。

 突然、視界の隅で赤いアイコンが激しく点滅した。
【緊急:第〇x八二B九内閣ユニット・総理大臣任命。任期:五分】

「げっ、兄貴に回ってきた。最悪のタイミングだね」
 結衣がクスクス笑う。僕は作業用手袋を脱ぎ捨て、空中に浮かび上がった閣議決定用のコンソールを呼び出した。

 流れてきた政策変更リクエストは、一件。提出元は「党中央ドクトリン・アーカイブ局」。
『公共娯楽施設における生体認証データの、党ドクトリン学習用アルゴリズムへの完全統合、および保存期間の永続化』

 要するに、この店にある最新型のプリクラ機でスキャンされる顔認証データや、筐体に触れる指紋の差分を、すべて党の「統治の種」として恒久的に差し出せという要求だ。承認すれば、アルゴリズムの署名がなされ、現行のプライバシー保護規定は一瞬で無効化される。その代わり、店の維持費に対するインセンティブが付与されるという、いつもの飴と鞭だ。

「どうする? 承認すれば今月のノルマ、楽勝になるよ。ほら、党の暗号キーも解読済みのテンプレが届いてる」
 結衣が僕の肩越しにウィンドウを覗き込む。彼女の瞳には、かつて実在した皇室遺伝子の名残か、淡い光が宿っているように見えた。僕たちは誰も意識していないが、この遺伝子のネットワークこそが、この国を繋ぎ止めている薄い膜なのだ。

 僕はプリクラ機の横に貼られた、一枚の古いシールに目をやった。それはエミュレートされたデータではなく、この時代に残った数少ない「本物」の物質。結衣が生前、まだ本物の肉体を持っていた頃に撮った、色あせたプリクラだ。そこには今のエージェントとしての彼女よりも、ずっと不器用で、ずっと不安定な笑顔が写っていた。

「結衣、お前ならどうする」
「私? 私はもうデータだもん。アーカイブされたって痛くも痒くもないよ。でも……」
 彼女は透過した指で、その古いシールに触れようとして、すり抜けた。
「そのシールの中の私は、きっとどこにも行きたくないって言ってる気がする」

 残り時間は三十秒。党のドクトリンは、社会の安定のために個人の痕跡を「最適化」することを求めている。承認ボタンが淡く発光し、僕の指を誘う。今のリクエストを否決すれば、明日には査察が入るかもしれない。

 僕は、承認ボタンの代わりに、コンソールの端にあるログアウト・ボタンを強く叩いた。

「……時間切れだ」

 五分が経過し、総理大臣の権限は、世界のどこかにいる別の誰かへとランダムに転送されていった。赤いアラートは消え、店内の静寂が戻る。公共ARサインは、何事もなかったかのように「平成ヒットソング・メドレー」の広告を流し始めた。

 僕は再びファミコンカセットを手に取り、接点復活剤を慎重に塗布した。指先に残る金属の冷たさと、微かな油の匂い。データにはならない、あるいはデータにすることを拒んだ何かが、確かにここにある。

「兄貴、損したね。明日からまた、カツカツの生活だよ」
「いいさ。その代わり、この店にはまだ、党に知られてない顔がいくつか残ってる」

 僕は、埃の被ったプリクラ機の電源を入れた。生体認証の赤いレーザーが、僕の網膜を無感情に走査する。けれど、その奥にある古いシールの中の少女は、誰にも読み取られることのない、曖昧な笑みを浮かべたままでいた。