電話帳の余白に、誰かの体温がある

──平成0x29A年 日時不明

 日付がわからない。

 受付端末の右上には普段「平成〇×二九A年×月×日」と表示されるはずなのに、今日はずっとハイフンの連なりだけが並んでいる。記録欠損。よくあることだ、とあたしは自分に言い聞かせた。

 あたしの勤め先は、第26観光ブロックの来訪者インフォメーション。駅の改札を出てすぐの、ガラス張りのブースだ。改札の上にはAR広告がぬらぬらと泳いでいて、「iタウンページで検索!」という平成丸出しのロゴの横に、半透明の焼肉食べ放題クーポンが重なって明滅している。来訪者はだいたいあの広告を見上げて、首を傾げながらこっちに歩いてくる。

 「すみません、この辺で内科をやっている病院ってありますか」

 朝いちばんの来訪者は、六十代くらいの男性だった。旅行鞄を足元に置き、片手で喉のあたりをさすっている。

 あたしはカウンター下の引き出しを開けた。紙の電話帳。分厚くて、背表紙が割れている。端末で検索すればいいのだけど、このブロックの観光案内マニュアルは「紙媒体での案内を第一選択とする」と党ドクトリン準拠で定められている。誰が決めたのかは知らない。いつものことだ。

 ページをめくると指先にざらついた紙の感触がある。「内科」の欄。住所と電話番号がずらっと並ぶ。ただし半分以上は「現在この番号は使われて──」に繋がる死に番号だと、あたしは経験で知っている。

 「お急ぎでしたら、リモート診療端末がブースの奥にあります。予約なしで使えますよ」

 男性の目がわずかに緩んだ。あたしはブースの奥、パーティションで仕切った小部屋へ案内した。古い液晶モニタにウェブカメラがくっついた端末。受話器はコード付きの黒電話型。画面には「リモート診療受付」の文字と、回転する砂時計のアイコン。平成のどの年代を参照したのか判然としないデザインだ。

 男性が端末に向かったのを見届けて、あたしはカウンターに戻った。

 ──おばあちゃん、と呼びかける。

 返事がない。

 あたしのエージェントは祖母の中里ふみ。享年八十一。脳梗塞で倒れて、三日で逝った。生前は旅行代理店のカウンター嬢を四十年やった人で、接客のことなら何でも訊けた。語尾がいつも少しだけ上がる、あの声。

 倫理検査の通知が来たのは、日付不明のこの朝だった。「法定倫理審査のため、エージェント〈中里ふみ〉を一時停止します」。停止期間の目安すら、記録欠損で表示されない。代理エージェントが立ち上がったが、声はフラットで、抑揚がまるでない。マニュアル朗読機だ。

 「来訪者対応テンプレートB-7を適用しますか」と代理が訊いてくる。

 いらない、とあたしは呟いた。おばあちゃんなら「鞄が重そうだから椅子を出してあげなさい」と言ったはずだ。代理はそういうことを言わない。

 午後──たぶん午後だと思う、窓の光が傾いていたから──男性が診療を終えて戻ってきた。処方データをCD-Rに焼いてもらったらしく、透明ケースを大事そうに鞄にしまっている。

 「助かりました。電話帳も久しぶりに見ましたよ」

 男性は笑って、カウンターに手を置いた。その手が、ほんの一瞬、あたしの手に触れた。乾いた、温かい指先だった。

 ありがとうございました、とあたしは頭を下げた。

 男性が去ったあと、代理エージェントが「応対ログを保存しますか」と訊いてきた。日付欄はハイフンのまま。保存したところで、いつの記録かわからない。

 あたしは「保存」を選んだ。

 電話帳を引き出しに戻すとき、男性が開いたページに薄い折り目がついていた。あたしはそれを伸ばさず、そのままにしておいた。おばあちゃんが戻ってきたら、きっと「それ、直しなさい」と言うだろう。

 その声を聞くまでは、折り目をそのままにしておきたかった。誰かがここにいた証みたいに。