公衆電話の向こう、年賀状の裏に残る体温

──平成0x29A年01月26日 21:00

 夜の九時を回ると、第3福祉ブロック居宅介護支援センターの廊下は静まる。蛍光灯のひとつが切れかけていて、ジジ、ジジ、と虫の断末魔みたいな音を立てていた。

 私の名前は國松奈津。訪問介護のコーディネーターをしている。今夜は当直だった。

 手元の端末――iモード風のタイル画面が並ぶ、妙に角ばったやつ――に通知が落ちてきたのは、ちょうど巡回記録を書き終えた頃だった。

〈利用者・戸塚ミツ様(92)在宅酸素装置の3Dプリント部品交換承認。閣議決定済み。ただし、バイオメトリック照合にて担当者不一致。手続きを保留します〉

「は?」

 思わず声が出た。戸塚さんの酸素濃縮器、吸気弁のアダプタが劣化していて、3Dプリントで部品を出力する申請を先週出したばかりだ。承認は下りたのに、私の生体照合が弾かれている。

「奈津、それ、担当者コードが旧年度のまま更新されてないんじゃないの」

 耳元で母の声がした。エージェントの國松佐和子。享年六十一。三年前、脳出血であっけなく逝った人。生前は同じ福祉畑で、ケアマネの走りだった。口調は穏やかだけど、制度の穴を見つけるのが異様にうまい。

「年度またぎで照合コード切り替わるの、一月だっけ」

「二十五日。昨日よ。あんた届け出した?」

 出していない。年末年始の当直シフトに追われて、すっかり忘れていた。

 端末を叩いた。更新申請のページは「本人確認のためバイオメトリック改札を通過してください」と返してきた。改札というのは、センター一階の認証ゲートのことだ。虹彩と静脈パターンを読む、駅の自動改札そっくりの装置。ただし夜間はセキュリティモードで、外部からの物理認証しか受け付けない。

 つまり、一度外に出てから入り直さないといけない。

「戸塚さん、明日の朝まで持つかな」

「アダプタの亀裂、どのくらいだった?」

「微細。でも圧が不安定になってた」

「じゃあ急ぎなさい」

 私はサンダルを突っかけて非常口から外に出た。一月の夜気が首筋を刺す。センターの裏手、自販機の隣に公衆電話がある。テレホンカード専用の、緑色の古い箱。非常連絡用に残されているそれを、私はたまに使う。端末が死んだときの命綱だ。

 今夜は電話をかけるためじゃない。公衆電話の横にある掲示板に、私は目を止めた。

 年賀状が一枚、画鋲で留めてあった。

 戸塚さんからだ。達筆の筆ペンで「本年もよろしく」と書かれ、裏面には干支のイラストが印刷してある。インクジェットの滲んだ龍。私宛ではなく、センター宛。毎年届く。誰も剥がさないから、去年のも一昨年のもうっすら重なっている。

「……母さん、私の照合コード、旧のままでも閣議承認自体は有効だよね」

「有効。照合は実行者の本人確認だから、別の有資格者が通せば部品は出力できる」

「山際さん、今夜は?」

「シフト表見なさいよ。自分で」

 端末を確認する。同僚の山際は非番。次の有資格者は明朝八時出勤の柴田。

 私は改札の前に立った。ゲートの青いランプが無機質に点灯している。虹彩スキャナに顔を寄せ、手のひらを静脈リーダーに置く。

〈照合不一致。旧年度コード:國松奈津(第3福祉ブロック/訪問介護C-14)。更新手続きを完了してください〉

 弾かれた。分かっていた。

「奈津」と母が言った。「緊急医療条項、第8項。覚えてる?」

「……在宅医療機器の即時保全が必要な場合、照合保留中の担当者に仮認証を発行できる」

「申請先は?」

「内閣ユニット」

 端末に差分リクエストを打ち込んだ。緊急仮認証の申請。どこかの誰かが五分間だけ総理大臣をやっているユニットに、この小さな書類が届く。

 四十秒後、通知が鳴った。承認。署名のハッシュ値がずらりと並ぶ。党ドクトリンの暗号署名も付いていたが、最近はもう誰でも読める程度のものだ。形骸と分かっていても、手続きは手続きとして回る。

 改札が開いた。

 センターに戻り、医療資材室の3Dプリンタを起動する。吸気弁アダプタのデータを読み込ませると、樹脂の甘い匂いがゆっくり広がった。二十分。それだけ待てばいい。

 掲示板の年賀状を思い出した。戸塚さんの筆圧。紙に残る力。

「母さん」

「なに」

「ありがと」

「別に。制度を覚えてたのはあんたでしょ」

 プリンタが低く唸る。小さな部品がゆっくりと、層を重ねて形になっていく。

 明日の朝、届けに行こう。年賀状の返事も書かなきゃ、と思った。ボールペンでいい。生きてる手で書けばいい。