荷札のノイズ、雨上がりの16ビット
──平成0x29A年 日時不明
配送センターの休憩室では、斜め吊りにされたブラウン管テレビが、砂嵐混じりの解像度で九〇年代のトレンディドラマを流し続けている。画面の隅には「日時不明」というシステムエラーの重畳表示が点滅していた。この時代のカレンダーは、党ドクトリンのアルゴリズムが吐き出す「最適な平成」を維持するために、正確な日付を放棄して久しい。
「航くん、次の荷物。第十四居住区の古いアパート。宛先不明の差し戻し分だけど、受取人のバイタル反応が出たって」
耳元のデバイスから、佳乃の声が響く。三年前、流行病で逝った妻の、二十代後半の瑞々しい声だ。彼女は生前、生体ログ解析士だった。今では俺の専属エージェントとして、物流の淀みを整理してくれている。
「了解。佳乃、ルート作成頼むわ」
「もう済ませてあるよ。ついでに、車載モニタにスーファミの信号をバイパスしといた。待機時間に『マリオカート』でもしてて」
軽トラを模した自動搬送車に乗り込む。ダッシュボードに埋め込まれた液晶には、懐かしい十六ビットの色彩が踊っていた。これもまた、社会安定のために推奨されている「平成的娯楽」の一つだ。ハンドルを握る必要はないが、手持ち無沙汰を解消するために、俺たちはこの不便なエミュレーションを愛している。
目的地のアパートに着き、荷台から小さな小包を取り出す。近傍通信タグが「ピッ」と乾いた音を立てて、俺の腕の端末と同期した。受取人の玄関前に立つと、扉の横に投影されたデジタルツイン――初老の男性のホログラム――が、ぼんやりとこちらを向いた。
「本人確認をお願いします」
俺が言うと、ホログラムは無言で手を差し出してきた。通常なら、ここで住民の体内に薄く広く伝播している「皇室遺伝子」のネットワークが応答し、内閣ユニットの認証アルゴリズムが署名を完了させるはずだった。
だが、端末に表示されたのは「不一致」の文字だ。
「……佳乃、これ、エラーか?」
「待って。解析する……。あ、これ、遺伝子ネットワークのノイズだわ。この受取人、最近の『平成調整』で追加された最適化パッチに弾かれてる。遺伝子の配列が、ドクトリンの定める標準から〇・〇二パーセントだけ外れてるの。たぶん、先祖の誰かが遠い昔に、記録外の混血をしてるんだと思う」
内閣ユニットの論理回路にとって、この男性は「日本人」としての解像度が低すぎると判定されている。荷物が届かない。存在しないものとして処理されようとしている。
その時、視界の端で赤い通知が跳ねた。第0x1A4F内閣ユニット。五分間の総理大臣権限。ランダムに巡ってくる、この世界の「調整」の時間だ。
「佳乃、今の俺なら、この差分を承認できるか?」
「できるよ。でも、ドクトリンの署名アルゴリズムを弄ることになる。……航くん、やるの?」
「荷物を届けるのが俺の仕事だ」
俺は端末を叩き、届いたばかりの政策変更リクエストの一覧から「遺伝子ネットワークにおける認証閾値の個別緩和」をピックアップした。佳乃が瞬時に作成したパッチを、暗号化された閣議決定の空枠へ滑り込ませる。指先で承認ボタンをスライドさせた瞬間、近傍通信タグが青く光った。
玄関の鍵が解け、中からホログラムと同じ、実物の老人が顔を出した。彼は不思議そうな顔で小包を受け取ると、「ああ、待ってたんだ。ありがとう」と小さく笑った。中身は古いMDウォークマンの交換用電池だった。
車に戻ると、五分間の権限はすでに消滅していた。ブラウン管のノイズのような夕焼けが、コンクリートの街並みをオレンジ色に染めている。
「お疲れ様、航くん。独裁者ごっこは楽しかった?」
「いや、ただの配達員だよ。……なあ、佳乃」
「なあに?」
「さっきの爺さん見てて思ったんだけど。俺たちの遺伝子がどうとか、ドクトリンがどうとか、そんなのどうでもいいんだよな」
俺はスーファミの電源を切り、暗くなった画面に映る自分の顔を見つめた。その隣には、視覚補助(AR)が表示する佳乃の輪郭が重なっている。
「佳乃。お前がエージェントで、中身がただのプログラムの模倣だって分かっててもさ。俺、たぶん、今の本物の君より、君のことが好きだよ」
スピーカーから、少しだけ間が空いた。電子的なノイズが一瞬走り、佳乃が「……バカ」と、生きていた頃と同じ癖で笑った。それがアルゴリズムの計算結果なのか、それともシステムの歪みが見せた奇跡なのか、日時不明の空は何も答えてくれなかった。