銀盤の署名、加速する夜明け

──平成0x29A年10月30日 05:10

 午前五時十分。旧上野エリアのリニア貨物ターミナルは、人工的な霧に包まれていた。スマートグラスの右隅に表示される時刻が、平成〇x二九A年十月三十日を刻んでいる。十月だというのに、湿り気を帯びた空気はどこか生温い。

「航平、また改札で弾かれるわよ。虹彩の焦点を固定して」

 折りたたみ携帯のスピーカーから、姉の佳江の声が響く。彼女が二十八歳で死んでから、もう五年が経つ。エージェントとなった彼女の声は、生前よりも少しだけ事務的だが、小言の多さは変わらない。

 バイオメトリック改札の前に立つ。網膜スキャンと指紋、それに掌紋の複合認証。ついでに、僕の体内に薄く流れる皇室遺伝子の波形が、国民ネットワークの末端として一瞬だけ照合される。ゲートが「ピンポーン」という、どこか懐かしい、気の抜けた電子音を立てて開いた。

「今の音、平成二十年くらいの標準設定らしいわよ。党ドクトリンが昨日、サウンドセットを更新したみたい」

 佳江がスマートグラス越しに補足データを流してくる。僕は胸ポケットからパカパカと折りたたみ携帯を開き、今日の検収リストを確認した。画面にはカクカクとした文字で『内閣ユニット・閣議決定待ち』のステータスが並んでいる。

「また並行処理が詰まってるのか。どっかの五分間総理が、署名アルゴリズムを間違えたな」

 僕はため息をつきながら、広大な貨物区画へと歩き出した。頭上では磁気浮上したコンテナが音もなく滑っていく。本来なら、これらすべての動きは暗号化された連鎖システムで自動制御されているはずだった。だが、第四〇二ヘゲモニー期も末期に差し掛かり、党のアルゴリズムは公然と綻びを見せている。

 管理棟の奥、旧式の端末が置かれた部屋に入る。今日の「アナログ手続き」の現場だ。

「指示が出たわ。内閣ユニット〇xB四四が、物流の安定化のために『物理媒体による外部署名』を要求してる。今回の形式は……あー、やっぱりこれね」

 佳江が呆れたように笑う。端末の横には、プラスチックのケースに入った、虹色に光る円盤が積まれていた。CDーRだ。

「これを焼くのか。令和になる前に絶滅したはずなのに」

「党のドクトリンが、これが『改竄不可能な物理的固定記憶』として最適だって判断しちゃったんだから仕方ないでしょ。ほら、ライティングソフトを起動して。バッファアンダーランに気をつけてね」

 僕はスマートグラスのAR表示に従い、慣れない手つきでマウスを動かした。リニア貨物の制御キーを、七〇〇メガバイトの容量に無理やり押し込んでいく。ドライブがキュイーンと高い回転音を上げ、書き込みが始まった。この五分間だけ、この世界のどこかで誰かが総理大臣として、このデータを受け入れるためのアルゴリズム署名を行っているはずだ。

 数分後、吐き出されたCDーRは、少しだけ熱を持っていた。僕はそれを、待機していた自動配送ドローンに手渡す。ドローンは不格好なアームで銀盤を掴むと、ターミナルの中央制御塔へと飛び去っていった。

「完了。これで上野の物流はあと六時間は持つわ。お疲れさま、航平」

 佳江の声に、わずかな安堵が混じる。僕は再び折りたたみ携帯を閉じ、スマートグラスの電源を切った。視界から情報のオーバーレイが消え、ただの暗い貨物ターミナルが広がる。

 数分後、遠くの方でリニアの加速音が響いた。古い光ディスクに書き込まれた、さらに古い時代の署名が、未来の乗り物を動かしている。その滑稽さを笑う気にもなれなかった。バイオメトリック改札を抜け、僕は駅前の自動販売機で、どこか薬臭い「平成風エナジードリンク」を買った。

 空はまだ暗い。明日もまた、誰かが五分間だけ総理になり、僕はまた別の銀盤を焼くことになるのだろう。それでいいのだと思う。この世界が、どうにか止まらずに回っているのなら。