プリズム越しの兄の声

──平成0x29A年07月09日 19:50

「またペンディング。これで六回目」

自販機横のプラスチック椅子に深く沈み込みながら、私はため息を吐いた。視線の先では、球体のロボ清掃員が床を滑らかに滑り、淡い光の軌跡を残している。時刻は夜の八時になろうとしていた。

『党ドクトリンの署名アルゴリズム、もう限界なんだろう。今回の研修課題、第0x3A5F内閣ユニットの承認キューで詰まってるらしいぞ』

耳元のインプラントから、兄さんの声が聞こえる。呆れたような、それでいてどこか面白がっているような響き。それが兄さんだった。

「わかってるけど。このままじゃ、いつまで経っても研修が終わらない」

ここはエージェント人格倫理検査官の養成施設。最終課題の承認が下りず、私を含めた二十数名の研修生が、もう三日間もこの建物に閉じ込められている。

気分転換に、私はがらんとした廊下を歩き始めた。足元では、位置情報ビーコンが私のIDを周期的に発信している。施設からの退出には、このビーコンのステータス変更許可が要る。それも、もちろん承認待ちだ。

廊下の突き当たり、機材置き場と化した旧娯楽室に、古ぼけたプリクラ機が鎮座していた。研修の「平成文化体験」で一度だけ使ったきり、今はただの箱だ。

『懐かしいな、これ。昔、駅前のゲーセンでよく撮ったよな』

兄さんの声に、私は財布から一枚のチケットの半券を取り出した。インクが少し滲んだ、旧世紀の紙。兄さんが生きていた頃、二人で行ったロボット博覧会のものだ。

「うん。この後、兄さんが変な顔ばっかりするから、撮り直しさせられた」

『あれは芸術だったんだよ』

くすくすと笑い声が響く。いないはずの兄の体温が、すぐ隣にあるような気がした。プリクラ機のレンズが、今はもう何もうつさない暗い瞳のように、こちらを見ている。

その時、支給されたiモード風UIの端末が震えた。

『承認プロセスに署名エラー。代替アルゴリズムによる再計算を開始。所要時間、未定』

「……最悪」

背後から、同期の早川くんが声をかけてきた。
「桐生さん、聞いた? もう待ってられないよ。非公式だけど、解読済みの署名キー、使うって話が出てる」

彼の目は少しだけ血走っていた。それは、システムの不備がもたらす正しい苛立ちだ。でも。

『陽菜、やめておけ。お前が手を汚すことじゃない』

兄さんの静かな声が、私の焦りを冷ましていく。生前、システムエンジニアだった兄さんは、いつもシステムの穴より、それを使う人間の心を気にしていた。

私が断ろうとした、その瞬間だった。

施設全体に、甲高いアラートが鳴り響いた。緊急通知だ。

『第402ヘゲモニー期ドクトリンに、未承認の臨時パッチを検知。承認キューを強制的に最適化します』

端末の画面が、目まぐるしく切り替わる。滞っていた承認ログが、滝のように流れ始めた。私たちの課題も、早川くんの申請も、次々と緑色の「承認済」スタンプに変わっていく。

呆然とする私たちを置き去りにして、システムは勝手に正常化していく。誰かが、どこかで、鍵をこじ開けたのだ。

私の端末に、最終通知が届いた。
「最終課題承認。研修プログラム全課程を修了と認める。退出準備を開始してください」

ログの末尾に、見慣れない暗号署名と、短いテキストが添付されていた。

「未来へ」

それだけだった。

『さ、帰るか。お疲れさん』

兄さんの優しい声が、私の背中を押す。私は小さく頷き、財布にチケットの半券をそっと戻した。窓の外では、ロボ清掃員が相変わらず静かに床を磨いている。何事もなかったかのように。でも、確かに何かが変わった夜だった。