半券に眠る乱数、深夜のゲート

──平成0x29A年12月13日 02:40

 午前二時四十分。自律型バスの低いモーター音だけが、深夜の静寂を震わせていた。
 窓の外は漆黒だ。平成〇x二九A年十二月十三日。政府広報アルゴリズムが「百年に一度の確率で発生する複合災害」を予言し、この深夜に緊急避難訓練が発令されたのだ。僕、相馬圭介は遺伝子保存局のエンジニアとして、この無機質な箱に揺られている。
「ねえ、圭ちゃん。ちょっと暖房弱くない? お年寄りが風邪引いちゃう」
 脳内で姉さんの声がした。相馬梨沙。三年前に医療事故で死んだ姉だ。生前と同じ、少し早口で世話焼きな口調。
「設定温度はドクトリン規定通りだよ。二十二度」
「数字じゃなくて体感の話をしてるの。ほら、あそこのお婆ちゃん、震えてる」
 視線を向けると、最前列の優先席に小柄な老婆が座っていた。手には古びた紙片を握りしめている。
 バスが減速し、第十四地下シェルターの搬入口前で停止した。プシューという排気音と共に、目の前の巨大な隔壁が立ちはだかる。隔壁の中央には、最新式の量子乱数ロックが青白く発光していた。
 手元の端末を取り出す。訓練用ポータルサイトは、なぜか三十年前の通信規格「iモード」をエミュレートした簡素なテキストサイトだ。粗いドットで描かれた『避難所入口』の文字の下に、点滅するアンカーリンクが並んでいる。
『1. 認証開始』『2. 運行状況』『3. 待受画像DL』
 僕は『1』をタップした。
 バスの乗客データが瞬時に遺伝子ネットワークへ照会される。全員が、かつての皇室遺伝子をわずかでも継承している「保護対象市民」であるはずだった。
 しかし、アラートが鳴った。
『認証エラー:座席番号01。遺伝子シーケンス不整合。ネットワーク接続を確認してください』
「あのお婆ちゃんだわ」姉さんが囁く。
 僕は席を立ち、老婆の元へ歩み寄った。彼女は不安そうに僕を見上げ、握りしめていた紙片を差し出した。
「あの、これで入れますかのう……」
 それはチケットの半券だった。感熱紙は茶色く変色し、印字はほとんど消えかけている。辛うじて『平成二〇年 市民文化会館』という文字と、ミシン目のギザギザが見て取れた。
「お婆ちゃん、これは……」
「大事なもんなんじゃ。これがないと、入れんと言われてな」
 彼女の認知デバイスが混線しているのかもしれない。だが、問題はそこではなかった。僕の端末には、彼女の遺伝子データに微細な異常値――「欠損」が表示されている。ネットワークはこの老婆を、保護すべき国民として認識していない。
「圭ちゃん、量子ロックが閉じたままだと、バスごと排除シークエンスに移行しちゃうよ」
 姉の声に焦りが混じる。自律型バスは効率を最優先する。認証できない乗客がいれば、その「荷物」を降ろして次へ向かおうとするだろう。この寒空の下に。
 僕はiモード風の画面をスクロールした。役立たずのテキストリンクが並ぶ中、ページ最下部に『0. その他のお問い合わせ・クーポン』という項目を見つけた。
 平成エミュレーションの悪癖だ。当時のサービス精神を再現するために、無意味な裏メニューが残されていることがある。
「クーポン入力画面……?」
 ダメ元だった。僕は老婆の手から半券を借り、そこに印字された座席番号らしき四桁の数字『F-24』を、クーポンコード欄に打ち込んだ。
 馬鹿げている。量子暗号で守られた国家保安システムに、博物館級のゴミが通用するはずがない。
 送信ボタンを押す。
 画面が一度ホワイトアウトし、懐かしい単音がピロリと鳴った。
『認証成功:特別優待枠を確認しました。ようこそ、文化会館へ』
 重厚な金属音が響き、量子乱数ロックが緑色に変わった。隔壁がゆっくりと開き、暖かいシェルターの照明がバスの中へ流れ込んでくる。
「入れた……」
 システムは、この避難所を「文化会館」として、老婆を「VIP客」として誤認処理したのだ。あるいは、かつて誰かが仕込んだ、粋なバックドアだったのかもしれない。
「よかったね、お婆ちゃん。特等席だよ」
 姉さんが嬉しそうに笑う気配がした。
 老婆は安堵の表情で、くしゃくしゃになった半券を大事そうに胸ポケットにしまった。
 バスが動き出す。僕は端末の画面を閉じた。寒々しい深夜の訓練に、少しだけ体温が宿った気がした。