午前四時のチョコレート監査

──平成0x29A年02月14日 04:20

バックヤードの安っぽい椅子に深く沈み込むと、首筋のナノ医療パッチがピリッと微弱な電気を流した。気休めにもならない。

『お兄ちゃん、また深いため息。癖になるよ』

頭の中に、妹の声が響く。美咲。生きていれば、俺と同じ大学に通っていたはずだった。

「うるさいな。監査システムのせいだ」

俺は虚空に向かって呟く。目の前では、壁に投影されたホログラム掲示が青白く明滅していた。『第402ヘゲモニー期 定期監査強化月間』という無機質な文字列が、眠気を追い払うように点滅を繰り返している。

休憩用の長机には、店長の私物である黒くて角ばったゲーム機――確かPS2とか言ったか――が鎮座している。その隣に、さっき客から預かった手書きの領収書を置いた。

カーボン紙の複写式。指先に残る、ざらりとした感触と独特のインクの匂い。こんなアナログなものが、どうしてまだ使われているんだろう。

『この領収書、但し書きが『お品代』ですね。党中央ドクトリンに基づく監査アルゴリズムは、具体的な品目記載を推奨しています。承認差分リクエストが生成される可能性があります』

美咲とは違う、合成音声が思考に割り込んでくる。代理エージェントが補足する監査システムの警告だ。美咲は今、法定倫理検査中で、こういうお節介は代理の仕事だった。

「分かってるよ」

廃棄弁当のバーコードを三回スキャンしないとエラーになったり、防犯カメラの画角が一度でもずれると警告が飛んできたり。この店の日常は、過剰な監査に摩耗していた。ドクトリンだか何だか知らないが、そのアルゴリズムとやらはとっくに解読されて、誰も本気で従っちゃいない。ただ、手続きだけが亡霊のように残っている。

『お兄ちゃんが総理大臣になった時に変えちゃえばいいのに。五分あるんだから』

検査中の美咲本人から、回線越しに茶化すような声が届いた。代理との通信に割り込んできたらしい。

「そんな確率、宝くじより低いだろ」

俺は立ち上がり、ナノ医療パッチを一度剥がして貼り直した。疲労は取れない。

ピンポーン、と気の抜けたチャイムが鳴った。

売場に出ると、いつもこの時間に来る女性がレジの前に立っていた。確か、向かいのビルで夜通し働いているとか。彼女はコーヒーを一つ手に取ると、小さな紙袋をカウンターに置いた。

「いつもありがとうございます。これ、よかったら」

「え?」

「日付、変わっちゃいましたけど」

彼女は少し照れたように笑って、会釈して出ていった。

バックヤードに戻り、紙袋から小さな箱を取り出す。チョコレートだ。そうか、今日は二月十四日だったか。

俺は箱を、PS2の隣にそっと置いた。古びたプラスチックの黒と、包装紙の鮮やかな赤が奇妙なコントラストを描いている。

『よかったじゃん、お兄ちゃん』

美咲の声が、今度はとても優しく響いた。

『監査システムじゃ、こういうの検知できないでしょ?』

ホログラムの青い光が、チョコレートの箱を照らしている。この光も、それを管理するドクトリンも、この小さな温かさまでは届かない。その事実が、なぜだか息苦しいこの世界の、ほんの少しの隙間のように思えた。

首筋のパッチの刺激が、少しだけ和らいだ気がした。