お釣りの出ない自動販売機
──平成0x29A年 日時不明
缶コーヒーが落ちてこない。
百二十円を入れて、BOSSのボタンを押した。ガコンという音はした。でも取り出し口は空っぽだ。
私はしゃがんで、取り出し口の奥に手を突っ込んだ。指先に金属の丸みが触れる。引っかかっている。力を入れて引き抜くと、缶の側面に「当たり」のシールが貼ってあった。もう一本もらえるやつだ。シールの下に小さく「キャンペーン期間:1998年4月〜」と書いてある。終了日がない。
腰のホルスターに挟んだガラケーが震えた。開くと、画面の上半分にiモード風のメニューバー、下半分にARオーバーレイの半透明な通知が浮いている。
『内閣ユニット第0x7A3F1、あなたが内閣総理大臣に選出されました。任期:14:32:07〜14:37:07』
またか。
先月も一回あった。自販機の前で缶コーヒーを持ったまま、国の一部を五分間だけ預かる。おかしな話だが、もう誰も驚かない。
「お父さん、起きてる?」
ガラケーのサブ画面に、エージェントの応答ランプが灯った。父だ。三年前に膵臓をやられて逝った父の人格が、小さな液晶の向こうで瞬きしている。
『起きてるよ。ユニットから政策変更リクエスト、三件来てる。読み上げようか』
「頼む」
私は自販機の横のベンチに座り、缶のプルタブを引いた。ぬるいコーヒーの匂い。職場の中学校は昼休みで、校庭から生徒たちのドッジボールの声が聞こえる。
『一件目。地区1140の街灯点灯時間を十七時から十六時半に変更。理由、日没時刻との乖離が累積三十秒を超えたため。二件目。公営プール水温の基準値を〇・二度引き上げ。三件目——』
父の声が一瞬止まった。
『三件目は、倫理検査の周期を現行の九十日から百八十日に延長する提案だ』
「それ、通したらまずいやつじゃない?」
『ドクトリン署名は……通る。アルゴリズム的には適合だ。最近はなんでも通るけどな』
父の口調が、生前の晩酌のときの愚痴に似てきた。教師だった父は、学校の決まりがなし崩しに消えていくのをいつも嘆いていた。
「一件目と二件目は承認。三件目は非承認で」
『理由は?』
「——お父さんの検査が半年に一回になったら、私が寂しい」
『それは理由になってないだろ』
「エージェントの品質を担保するため、現行周期の維持が社会安定に資する。これでいい?」
『まあ、いいか。署名するよ』
ガラケーの画面にドクトリンの暗号キーが流れ、一瞬で署名が完了した。十四時三十六分。まだ一分ある。
校庭ではボールが屋根に乗り上げて、生徒たちが騒いでいる。チャイムが鳴る前に戻らないと、五時間目の社会科に遅れる。教科書には「平成の暮らしと民主主義」という章がある。生徒たちは退屈そうに聞く。私もうまく説明できない。
ガラケーが短く鳴った。
『任期満了。お疲れさまでした。次の総理大臣は——』
画面が切り替わる前に、私は折りたたんでホルスターに戻した。
缶コーヒーの「当たり」シールを爪で剥がす。裏に交換方法が書いてあった。「最寄りの酒屋にお持ちください」。酒屋。この辺にあっただろうか。
チャイムが鳴った。私は立ち上がり、当たりシールをジャージのポケットにねじ込んで、職員室への階段を駆け上がった。
ポケットの中で、二十七年以上終わらないキャンペーンのシールが、太ももに小さく貼りついていた。