改札に響く異邦の言葉
──平成0x29A年03月05日 19:40
バイオメトリック改札のゲートが、無機質な赤色を点滅させた。目の前の空間に『エラー:越境許可未認証』というAR表示が浮かぶ。
「だから、先に窓口へ行けと言ったでしょう」
頭の中に響くのは、母の声ではない。平坦で、どこか金属的な響きを帯びた、代理エージェントの合成音声だ。
「分かってるよ」
俺は舌打ちを堪え、人の流れから外れて「ブロック間航行管理局」と書かれた窓口へ向かった。
母さんのエージェントは、先週から法定倫理検査に入っている。戻ってくるのは、あと三日後。それまでの我慢だ。
窓口の向こうに座る、疲れた顔の係員に用件を告げる。第18ブロックから第23ブロックへの移動許可申請。今夜の夜行ライナーに乗る必要があるのだ。
「では、IDとカーボンクレジット台帳との連携を」
俺が手元の携帯端末を操作すると、代理エージェントが係員のシステムへ認証パケットを送信する。しばらくの沈黙。係員の眉間に皺が寄った。
「お客様。クレジットの相殺申請に、ドクトリン署名の古いフォーマットが混入していますね。これだと自動承認が通りません」
「どういうことだ?」
俺が尋ねるより早く、代理エージェントが応答した。
《当方の翻訳によれば、申請者の思想的立場が党の教義に反しているため、承認は保留される、とのことです》
「は?」
俺と係員の目が点になる。窓口の向こうで、係員が慌てて両手を振った。
「ち、違います!そういう意味では……」
「すみません、こいつ、代理でして。ポンコツなんです」
俺は頭を下げた。母さんなら、こんな頓珍漢な翻訳はしない。「あら、古い書式が混じってるみたいよ。昔の役所仕事の名残かしらねぇ」なんて軽口を叩きながら、最適な代替案を検索してくれたはずだ。
「……承知いたしました。では、特例として紙での差分申請をお願いします」
係員が差し出した紙の束を見て、眩暈がした。追加で身分を証明するものが必要だと言われ、財布から一枚の写真を取り出す。母さんと二人で撮った、色褪せたフィルム写真だ。旅行先で、使い捨てカメラで撮ったもの。
《アナログ記録媒体上の生体情報ですね。デジタルスキャンを実行します》
代理エージェントの無関心な声が、写真の思い出をただのデータに変換していく。寂しさが胸をかすめた。
手続きの最後、係員は奥の部屋を指差した。
「申し訳ありませんが、最終承認の通知は、あちらのFAXで受け取っていただく決まりでして」
薄暗い部屋の隅で、時代錯誤な機械が低く唸っている。なんで今どきFAXなんだ。そんな疑問を察したのか、代理エージェントが補足する。
《旧世紀の内閣ユニットとの互換性を維持するため、一部の重要通信プロトコルは物理層での担保が規定されています》
「……そうかよ」
もう、どうでもよかった。母さんのいない三日間は、まるで外国語の飛び交う街に一人で放り出されたような気分になる。
やがて、けたたましい受信音と共に、一枚の感熱紙が吐き出された。承認印のインクが滲んだそれを手に、俺は再び改札へ向かう。
今度は、ゲートは静かに青く光った。
《目的地までの経路案内を開始します》
頭の中に響く異邦の言葉を聞きながら、俺はホームへと続く階段を、ただ淡々と下りていった。