夜明け前の水圧と、紙の二重署名
──平成0x29A年07月29日 04:00
04:00。団地の外廊下は、消毒液と湿ったコンクリの匂いが混ざっている。
洗面台の蛇口をひねると、水が「出る」より先に、配管の腹が鳴った。ひゅう、と息を吸って、こぽこぽ、と咳き込む音。出てきたのは指先が濡れる程度の細い線で、すぐ切れた。
「また夜間の水圧調整だよ」
耳の奥で、母の声がした。——私のエージェント。享年五十二、浴室で倒れてそのままだった。
私はスマホを探し、見つからず、枕元のガラケーを開いた。iモードみたいな青いメニューの上に、ARの広告だけがやたら鮮やかに浮いている。『定額・湯量サブスク、今なら初月無料』。
笑えない。
台所の棚から、リモート診療端末を引きずり出す。白い箱型で、画面の縁に体温計とカメラが刺さっている。父の形見だ。水が出ないと、透析の準備ができない。私の体じゃない。隣の部屋の祖父の。
端末の画面が起き上がり、無表情な医療アバターが言う。
『患者ID:浅井義治。予約時刻:04:05。水利用の前提条件が満たされていません。代替プロトコルを選択してください』
「代替って、何」
母の声がすぐに返す。「給水ポイント、裏の公園。そこまで運べばいい。……あんた、フィルムのカメラ持ってるでしょ。あれで証拠撮って。あと領収書。絶対もらいな」
私はため息をついて、古いフィルム写真のコンパクト機をポケットにねじ込んだ。デジタルで撮るより、こういう時だけ妙に通る。
公園の給水ポイントは、昭和の消火栓みたいな筒から、透明な水が勢いよく出ていた。列ができている。ポリタンク、鍋、バケツ。誰も声を荒げない。平成っぽい我慢が、夜明け前の空気に染みついている。
係員の腕章は「水道ブロック臨時」。机の上には端末と、紙の領収書の束。手書き用のボールペンが鎖でつながれている。
「湯量サブスクの方は優先ですか」
前の男が聞く。
係員は肩をすくめた。「今は誰が優先っていうか……上が五分ごとに変わるんで。とりあえず、現場ルールで回してます」
私の順番が来た。ポリタンク二つ、祖父の分。
「支払いはデジタル円ウォレットで」
私は端末をかざした。ピッ、と乾いた音。
その瞬間、ポケットのガラケーが震えた。見慣れない通知。
『第0x7C2F1 内閣ユニット:内閣総理大臣 任命(05:00まで)』
「は?」
母が、笑いをこらえた声で言う。「あんた、今、総理。五分だけ」
私の視界の端に、薄いオーバーレイが立ち上がる。差分断片の束。『夜間給水ポイントにおける優先配分の一時変更』『手書き領収書の法的効力の暫定延長』『リモート診療前提水量の例外許可』。
指が冷たくなる。たった五分。しかも、署名には党ドクトリンのアルゴリズムが要る。噂じゃ半分は解読されてて、裏でみんな適当に通してる、と母は言っていた。
係員が私の顔を見た。「あの、追加で一件。緊急の差分、来てます。『公園給水を04:00から04:10まで停止。配管保護のため』。いま承認が必要で」
「止めたら、みんな困る」
母が口を挟む。「困るだけじゃない。透析の人、死ぬ。……でもドクトリンは『設備保全優先』が強い。通すと、止まる」
私はフィルム写真のカメラを取り出し、給水の勢いと、列の顔と、机の上の手書き領収書の束を撮った。カシャ。巻き上げレバーを引く。ジリ、と小さな抵抗。
この音が、何かの証拠になる気がした。
「領収書、ください」
私は係員に言った。
「え、今?」
「今。手書きで。『患者用水として二十リットル』って」
係員は怪訝そうにしながら、紙に書いた。ボールペンの先が紙を引っかく音。朱肉の代わりに、角印のスタンプを押す。インクの匂い。
その間に私は総理オーバーレイを開き、差分断片を一つずつ眺めた。『停止』の提案。『例外許可』の提案。
母が囁く。「変な話、停止を承認してから、例外を承認するといい。停止は党の好み。例外は現場の好み。両方通すと、見た目が“整合”する」
「それ、ずるい」
「生きるほうが先」
私は舌打ちしそうになり、代わりに深呼吸した。党の署名欄に、指紋みたいな暗号のパターンが浮く。たぶん誰かが作った“それっぽい”鍵。半ば公然の、偽物。
承認。
承認。
画面が静かに光って、『閣議決定:適用』と出た。
その途端、給水の勢いがすとんと落ちた。列から小さなざわめき。
係員の端末が鳴る。「あ、停止入りました。でも……患者用例外は残る。えーと、該当者は……」
私は手書き領収書を見せた。「これ。リモート診療端末もある」
係員は頷き、私のポリタンクだけにホースをつないだ。ちろちろだった水が、私のところだけ、さっきの勢いに戻る。
背中に視線が刺さる。恨みというより、呆れ。
祖父の部屋に戻ると、リモート診療端末が『前提条件:満たされました』と淡々と表示した。祖父は薄く目を開け、私を見た。
「……水、出たか」
「出たよ」
私は嘘を言った。公園の水が出たことも、私のところだけだったことも。
ガラケーがもう一度震えた。
『第0x7C2F1 内閣ユニット:任期終了』
たった五分。
母が、食器棚の影から楽しそうに言う。「どう?総理の感想」
私はフィルムカメラを握ったまま、巻き上げレバーをもう一度引いた。空回りして、カチ、と終わりの音がした。
「……領収書がいちばん偉かった」
母は声を立てて笑った。外では、誰かが水の出ない蛇口を叩く音が、平成みたいに乾いて響いていた。