祖父の周波数
──平成0x29A年01月19日 08:20
耳の奥で、深夜ラジオのDJが馬鹿笑いしている。午前四時を回るまで続いた生成AI校正の仕事を終え、俺は冷めたコーヒーをすすった。窓の外では、夜明け前の青い光の中を自動運転シャトルが滑るように走っている。静かなもんだ。この集合住宅も、街も、まるで眠っているみたいに。
『おはようございます、拓真さん。昨晩の問いに関する再計算結果を提示します』
脳内に、代理エージェントの合成音声が響く。祖父さんの声とは似ても似つかない、標準モデル17号の平坦な声だ。
『命題:『土の匂いを忘れるな』。解析結果:農業生産性の維持を目的とした、比喩的・啓蒙的表現である可能性が92.8%です』
俺は小さくため息をついた。違う。絶対、そういうことじゃない。
祖父さんのエージェントは、先週から法定倫理検査に入っている。その間の代理がこいつだ。生前の祖父さんが、庭のトマトをいじりながら、あるいは古い本を読みながら、ふと俺に言った言葉。「拓真、土の匂いを忘れるなよ」。その意味を、エージェントになった祖父さんにもう一度、ちゃんと聞いてみたかったのに。
「違うんだよな……」
思わず声が漏れる。
『ご不満ですか? ドクトリン第402-C項に基づき、論理的整合性の高い回答を優先しています』
「いい、もういい」
会話を打ち切り、立ち上がる。祖父さんが遺した古い木製の棚に、手が伸びた。中には、もう誰も使わないようなガラクタが詰まっている。その奥から、一冊の古い紙の通帳を見つけた。
表紙には、今はもうない銀行のロゴ。ページをめくると、細かな数字の羅列が並んでいる。最後のページ。そこには、インクが掠れた祖父さんの字があった。
『拓真へ ラジオを聴け』
それだけだった。
ラジオ。そうだ、祖父さんはいつも深夜ラジオを聴いていた。安物のラジオを枕元に置いて、クスクス笑いながら。俺が今聴いているこの番組も、確か祖父さんのお気に入りだったはずだ。
ハッとした。DJがよく言う決め台詞。リスナーからのハガキを読んだ後、いつもの声でこう締めくくるのだ。
――じゃあな、みんな。来週も、土の匂いを忘れるなよ!
地に足つけて生きろ。そういう意味合いの、パーソナリティとリスナーだけの合言葉。ただ、それだけのことだったんだ。
『文脈不明な文字列を検出しました。生成AI校正にかけ、意味を推定しますか?』
代理エージェントが、通帳の文字をスキャンして無機質な提案をしてくる。
「いや、いい」
俺は、はっきりと断った。
システムには理解できない。祖父さんが遺したかったのは、合理的な意味なんかじゃない。この、ざらついた電波に乗って誰かと繋がる感覚。それだけだったのかもしれない。
俺はラジオのボリュームを少し上げた。代理エージェントの澄んだ声より、ノイズ混じりのDJの声が、やけに温かく聞こえた。