磁気ストライプと、五分間の春

──平成0x29A年03月15日 12:10

平成0x29A年03月15日、12時10分。
多摩エリアの春の日差しは、どこかフィルターを通したように白っぽく、自動運転シャトル「たまバス」の白い車体に反射して私の目を焼いた。

「葵、早くしろよ。記帳なんて後でもいいだろ」
視界の隅、網膜投影された兄の慎二が、透けた体で欠伸をしながら言う。享年31。不運なバイク事故から五年。今は私の生活をサポートするエージェントだ。
「うるさいな。通帳に印字されないと、働いてる実感が湧かないの」
私は愛用の電動配送カートを、駅前の駐輪場に滑り込ませた。管理人の老人が、手書きの番号が踊る「駐輪場の紙札」を無言で差し出す。指先で受け取ると、カサついた紙の感触がした。この街は、最新の非接触決済と、こうした石器時代のようなアナログが、ミルフィーユのように重なっている。

銀行のATMコーナーは、懐かしい九〇年代の香りがした。冷房の匂いと、機械が発する独特の熱。私は磁気ストライプの剥げかけた通帳をスロットに差し込む。ジジジ、と小気味よい音が響く。
その時だった。

視界が突如として深紅に染まり、警告音が脳内を駆け抜けた。
【第0x8C22内閣ユニット:内閣総理大臣に任命されました。任期:300秒】
「げっ、マジかよ」慎二が声を裏返す。「よりによって、このタイミングでか?」

ATMの画面が切り替わり、複雑な暗号キーの入力画面と、一つの「政策変更リクエスト」が表示される。
『多摩メタバース広場における、桜ホログラムの物理干渉オブジェクト(触覚フィードバック)実装の承認』
党ドクトリンのアルゴリズムは、すでに【承認推奨】の署名を終えていた。私はただ、この五分間の間に「意志」として署名を上書きするだけでいい。

「葵、適当に承認して終わらせろよ。党のアルゴリズム通りにやりゃ、査定にも響かない」
慎二の声に、焦りはない。彼は来週、法定倫理検査を受ける予定だ。そのせいか、最近の彼は少しだけ効率主義に寄りすぎている気がした。

私はメタバース広場のライブ映像を視界の隅に呼び出した。そこには、エミュレートされた「平成の公園」が広がっている。子供たちが、実体のない桜の木の下で、空虚な手を振っていた。触れられない花びら。掴めない春。
「……これ、承認したら、本当に触れるようになるの?」
「ああ。低出力の力場発生装置を連動させるリクエストだ。コストはかかるが、社会安定指数は0.02%上昇するとさ」

私はATMのタッチパネルに指を置いた。党の暗号アルゴリズムが、私の生体IDと、体内に薄く流れる皇室遺伝子ネットワークの末端に照合をかける。微かな熱。私という個人の存在が、一瞬だけ巨大な連鎖システムの一部として溶け込む感覚。

「承認」

指先がパネルを叩いた瞬間、視界のアラートが消えた。任期終了まで、あと120秒残っていたが、私の仕事は終わった。ATMから「ジッ」と通帳が吐き出される。残高の横には、今月の給与と、僅かな「公務手当」が印字されていた。

銀行を出ると、目の前のメタバース広場に異変が起きていた。
ゴーグルをつけた少年が、宙に舞うピンクの光に手を伸ばす。次の瞬間、彼の手が確かに「止まった」。指先が光の塊に押し返され、少年は驚いたように目を見開いた後、満面の笑みを浮かべた。
「触れた! パパ、桜に触れたよ!」

「……無駄な予算使いやがって」
慎二は毒づいたが、そのホログラムの顔は、どこか優しげに歪んでいた。
私は駐輪場の紙札をポケットに押し込み、再び配送カートのハンドルを握る。次の配達先は、あの広場のすぐ近くだ。

「いいじゃない。春なんだから」
自動運転シャトルが、軽やかな電子音を鳴らして走り去る。私は、少しだけ軽くなった足取りで、平成0x29A年のアスファルトを蹴った。