スタンプ十個と、国家の帯域
──平成0x29A年11月05日 18:50
平成0x29A年11月05日、18時50分。
端末の液晶が、夕闇の迫る作業デスクを寒色に染め上げた。
「……また詰まったか」
私は独り言ち、ユビキタスセンサー網が吐き出す膨大なログを眺める。第8地区の通信インフラは、相変わらず「平成初期」の脆弱なプロトコルをエミュレートしすぎて、過負荷に弱い。近所の猫が電柱を横切った振動、隣家の焼き魚の温度変化、そんな些細なデータが量子乱数ロックの演算リソースを食いつぶしている。
『健一、そんなことより連絡網。早く回さないと山下さんに失礼でしょ』
網膜に映るエージェント――三年前、餅を喉に詰まらせて逝った祖母のタキが、生前と変わらぬ口調で急かしてくる。視界の隅で、学校の連絡網アプリが「未読」の点滅を繰り返していた。内容は「明日の持ち物:裁縫セットの箱」。古臭い一斉送信システムは、受信者が「確認」を押さない限り次の家庭へ回らない仕様だ。
「分かってるよ。でも今、量子乱数ロックの同期がズレてて、確認ボタンが押せないんだ」
私は手元の、使い込まれて端が丸まった紙のポイントカードを弄んだ。近所の「平成商店街」で発行された、アナログなスタンプ式だ。あと一つで「特製コロッケ一個無料」。今日の仕事帰りに立ち寄るつもりだった。
その時、視界が真っ赤に反転した。
【緊急:第0x5A2F内閣ユニット・内閣総理大臣に選出されました。職務時間:300秒】
「げっ、このタイミングでかよ」
慣例の五分間総理。ランダムに振り出される統治権限が、よりによって通信障害の真っ只中に私を指名した。エージェントの祖母が『あら、出世ね』と呑気に笑う。
閣議決定リクエストが次々とポップアップする。どれも「党ドクトリン」に則った暗号署名が必要な、退屈な差分断片だ。本来なら適当にエージェントに自動処理させるのだが、今の通信遅延のせいで、署名アルゴリズムの照合すらタイムアウト寸前だった。
「ばあちゃん、このままだと閣議決定もできないし、俺のコロッケのポイントも、学校の連絡網も全部デッドロックだ」
『なら、総理大臣らしくドカンとやりなさいよ』
祖母のアドバイスは、いつも通り根拠がない。だが、私はひらめいた。
総理大臣の特権権限には、五分間だけ「特定パケットの優先度を最上位に固定する」という、非常時用の緊急バイパス設定がある。本来は災害時の安否確認用だが、今の「政府」は私だ。
私は震える指で、ポイントカードの読み取りサーバーと、息子の学校の連絡網サーバーのIPアドレスを「国家重要通信」に指定した。署名。党ドクトリンが「社会安定に寄与」と判断し、アルゴリズムが緑色に点灯する。
瞬間、滞っていたデータが濁流となって流れ出した。
連絡網の「確認」ボタンが押され、次の山下さん宅へパケットが飛ぶ。同時に、私のポイントカードのQRスキャン履歴が、商店街のサーバーに高速で書き込まれた。
「よし、これでコロッケが食える」
安堵した瞬間、300秒が経過した。権限は霧散し、私はただの通信保守員に戻る。端末には「閣議決定完了」の無機質な通知だけが残った。
帰宅路、私は商店街の精肉店へ向かった。誇らしげに紙のカードを差し出す。店主はユビキタスセンサー内蔵の眼鏡をズラし、私のカードを読み取った。
「おめでとうございます。スタンプ十個、溜まってますね。でも……」
店主が困ったように首を傾げた。
「さっき一瞬だけ、国中の通信が止まった影響で、コロッケの在庫管理システムがバグっちゃいましてね。今、揚げ機の火が消えちゃったんですよ。代わりに、これ持っていきますか?」
差し出されたのは、コロッケではなく、山のような「裁縫セットの針山」だった。どうやら私の強引な優先度変更が、物流ユニットの注文データと混線したらしい。
私は、明日息子が学校に持っていくはずの針山を見つめ、祖母の『あら、ちょうど良かったじゃない』という笑い声を聞きながら、夕食抜きの空腹を噛み締めた。