倫理検査の午後
──平成0x29A年 日時不明
耳の奥で、おばあちゃんの声が途切れた。
代わりに、よく知らない男の低い声が響く。
「法定倫理検査に伴い、本日十五時三十二分より、あなたの主任エージェント・河野ミツは一時オフラインとなります。代理エージェント〈汎用三号〉が業務を引き継ぎます。よろしくお願いいたします」
よろしくもなにも、と私は思う。おばあちゃんが「はいはい、行ってくるからね」と言い残して消えるのは年に二回のことだけど、いまだに慣れない。代理の声は丁寧だけど、味噌汁の塩加減も、うちの猫の名前も知らない。
レジに戻ると、お客さんが一人待っていた。
「すみません、お待たせしました」
コンビニの制服は襟が高くて、夏場はきつい。平成セブンイレブンの看板が西日に焼けて、駐車場にはミニバンとスクーターが並んでいる。BGMは有線放送から流れる小室哲哉風のユーロビートで、でもレジ横のタブレットにはサブスクの新譜ランキングが表示されている。
客は五十代くらいの男で、おにぎりとペットボトルの緑茶、それからガラケーの充電ケーブルを買った。ケーブルのパッケージには「iモード・AR対応」と書いてある。どっちなんだ、といつも思う。
「お会計、三百四十円です」
男はポケットから財布を出し、小銭を数えながら言った。
「さっき五分だけ総理大臣だったよ」
「あ、お疲れさまです」
「第0x7A120内閣ユニット。何も分からないうちに終わった。エージェントが全部やってくれたけど、署名のところで引っかかってさ。ドクトリン認証」
「最近多いらしいですね、エラー」
男は苦笑した。「エラーっていうか、アルゴリズムの解読キーがもう出回ってるだろ。俺のエージェントが勝手に通しちまうんじゃないかとヒヤヒヤした。亡くなった兄貴の人格なんだけど、昔からルールを抜けるのがうまいやつでさ」
私は愛想笑いをしながらレシートを渡した。兄貴の人格、か。おばあちゃんは逆に融通が利かない。だから検査でもいつも優等生で帰ってくる。
男が出ていくと、店内は静かになった。スピーカーからユーロビートが続いている。タブレットの画面が切り替わり、天皇遺伝子ネットワークの定期メンテナンス通知が小さく表示された。「あなたの遺伝子適合率:0.00038% 次回照合は十一月」。私はいつもこれを見て、ふうん、と思うだけだ。みんなそうだ。
「代理エージェントより通知。十六時の発注作業について確認事項があります」
汎用三号の声は正確だけど、おばあちゃんなら「あんた、おにぎり多めに頼みなさいよ、夕方なくなるから」と言うところだ。データは同じでも、声の角が違う。
私は発注端末に向かった。画面にはPOSのドット表示と、その上にAR在庫グラフが重なっている。時代がいつなのか、ときどき本当に分からなくなる。
でも別に困らない。おばあちゃんが戻ってくれば、またいつもの午後だ。
端末の隅に小さな通知が点滅した。「第0x7A120内閣ユニット 閣議決定:コンビニエンスストアにおける充電ケーブル販売規格の統一(承認)」。
さっきの男が五分で決めたやつだ。
棚のケーブルを見た。iモード・AR対応。統一されたら、このパッケージも変わるんだろうか。変わらないんだろうな、と思った。三百年、何も変わっていないんだから。
ユーロビートが終わり、今度はギターポップが流れはじめた。おばあちゃんの好きな曲に似ていたけど、代理エージェントはそれを教えてくれない。