承認待ちのフレーム

──平成0x29A年10月20日 11:10

壁のアナログ時計の秒針が、やけに大きな音を立てていた。カチリ、カチリ。まるで俺の神経を一本ずつ削り取っていくみたいに。

「ですから、第0x3C1A内閣ユニットの承認が下りないと、こちらでは何も」

「いつになるんだって聞いてんだよ! もう三ヶ月だぞ!」

アクリル板の向こうで、男が顔を真っ赤にしている。俺はただ、練習を重ねた無表情を貼り付けて、頭を下げた。

『圭。定型文B-4で対応しなさい。感情的になっても解決しません』

頭の中に、母さんの冷静な声が響く。今はエージェントとして俺を補佐する、元図書館司書の母さんだ。生きていた頃と変わらない、少し硬い声だった。

男が諦めたように舌打ちをして去っていくと、俺は深く息を吐いた。視界の隅で、同僚が分散SNSの非公式チャンネルに書き込むのが見えた。『1番窓口、また炎上。0x3C1A、マジで仕事しろ』。すぐに共感を示すスタンプがいくつも付いた。

俺はデスクに戻り、新しい通知文の作成に取り掛かる。「転出証明書の遅延に関するお詫び」。もう何十回と書いた文章だ。

エディタを立ち上げ、定型文を流し込む。仕上げに生成AI校正ツールを起動した。AIは、より市民の感情に寄り添うようにと、いくつかの修正案を提示してくる。

【提案:『システム上の不可避な輻輳により』を『皆様の多様なご意見を慎重に集約する過程で』に修正しますか?】

『却下しなさい』と、即座に母さんが言った。『その表現は党ドクトリンの推奨語彙から逸脱しています。責任の所在を曖昧にしすぎると、後の監査で指摘されます』

「……はいはい」

俺は小さく呟いて、AIの提案をすべて却下した。結局、いつも通り当たり障りのない、誰の心にも響かない文章が出来上がる。それらを印刷する音だけが、停滞した空気に響いていた。

昼休憩のサイレンが鳴る。重い腰を上げると、ロビーの隅で甲高い電子音がした。いつから置いてあるのか、場違いなプリクラ機だ。近所の高校生たちが、狭いブースの中でポーズをとり、きゃっきゃと笑っている。

確かあれは、第0x89B2内閣ユニットの承認事業だったか。地域活性化と若者世代の幸福度向上のため、とかいう名目で、申請から三日で承認が下りたらしい。

市民の生活に不可欠な手続きは三ヶ月も止まったままなのに、プリクラ機は三日で建つ。この世界の歪みは、いつだってそういう些細な場所に、ぽっかりと口を開けている。

『圭。心拍数が上昇しています。深呼吸を』

母さんの声に促され、俺はゆっくりと息を吸い、吐いた。怒りも、悲しみも、もう湧いてこない。ただ、そこにある事実として受け入れるだけだ。

やがて、けたたましいシャッター音と共に、加工されすぎた笑顔の写真が吐き出された。高校生たちがそれを取り囲んで笑っている。その背景には、次の順番を待つ市民たちの、苛立った長い列が見えた。

壁のアナログ時計が、カチリ、とまた一つ時を刻む。何も変わらない。それでいい。

「さて、と」

俺は呟き、自分の席に戻った。午後に配る分の「お詫び」を、今のうちに印刷しておかなくては。