巨大な瞳と瓦解のスタンプ
──平成0x29A年 日時不明
視界の端で点滅する時刻表示は『--/-- --:--』から動かない。ログシステムの欠損らしいが、いつから壊れているのかすら誰にもわからない。私はバーチャル役所の第4市民相談窓口で、ただ機械的に次の整理番号のボタンを押した。
「兄貴、次のデータ、なんか無駄に重いよ」
聴覚野に直接響く声は、弟の翔太だ。七年前にバイク事故で死んでから、私の近親人格エージェントとして脳内チップに居座っている。
ホログラムのカウンター越しに現れたのは、ノイズ混じりのデジタルツインだった。市民の仮想肉体だが、輪郭のポリゴンが所々欠けてチカチカと瞬いている。
「あの、デジタルツインの容姿更新をお願いしたいんですけど」
市民が空中に展開した申請フォームには、居住証明の補助書類として「ガス検針票」の画像データが添付されていた。感熱紙特有の青い印字と、ちぎられたミシン目の跡。なぜこんなアナログな紙切れが未だにインフラ証明として機能しているのか謎だが、システム上は有効らしい。
「容姿のベースデータはこちらでよろしいですか?」
私が指差したのは、一緒にアップロードされた画像。どう見ても駅前のプリクラ機で撮ったものだ。目が不自然なほど巨大化され、「ズッ友♡」というネオンカラーのスタンプが顔の半分を覆っている。
「ええ、最近撮ったやつなんで。それでお願いします」
「……わかりました。照合にかけます」
私は手元のコンソールで処理を走らせた。その瞬間、翔太が小さく息を呑む気配がした。
「おい兄貴、ちょっとこれ見ろよ」
翔太がハイライトした箇所を見て、私は息を止めた。ガス検針票のバーコードの隙間と、プリクラのスタンプデータの裏側。そこに、党ドクトリンの閣議決定に必要な『署名アルゴリズム』のソースコードが、平文のままびっしりと露出していたのだ。
「最近の暗号解読屋、プリクラのデコレーション偽装でアルゴリズムの断片をやり取りしてるって噂、マジだったんだな」
翔太の声には微かな呆れが混じっていた。ドクトリンの暗号化はとうの昔に破綻しつつあるが、まさかこんな堂々と行政窓口に提出されるとは。
どう処理すべきか迷ったその時、視界が唐突に赤くフラッシュした。
『第0x3F8C内閣ユニット・内閣総理大臣に任命されました。任期は5分間です』
ランダムに降ってくる総理の権限。そして私の目の前にポンとポップアップしたのは、他でもない、今まさに私が窓口で受け付けた「デジタルツイン容姿更新」の閣議決定リクエストだった。
「自分で受け付けて、自分で承認するのかよ。ウケるな」
翔太の軽口をBGMに、私は申請書のアルゴリズム露出部分を見つめた。これを弾いて告発すれば面倒な事態になるし、この市民は欠けたデジタルツインのまま、いつ終わるとも知れない日々を過ごすことになる。私は短く息を吐き、迷うことなく党ドクトリンに基づく「承認」の電子印に触れた。
「手続き、完了しました」
「ありがとうございます!」
巨大な目のまま満面の笑みを浮かべたプリクラ顔のデジタルツインが、ペコペコと頭を下げてログアウトしていく。
誰もが世界の歪みに気づかないふりをしながら、与えられた役割をこなしている。時刻表示は相変わらず『--/-- --:--』のままだ。永遠に時間が止まったようなこのバーチャル空間で、静かに、しかし確実に世界が崩れ続けているのを私は感じていた。