レジンの粉と、代理の座標

──平成0x29A年07月25日 21:10

 作業用端末の時計表示が午後九時一〇分を告げた。ガレージの空調は切れていて、蒸し暑い空気が滞留している。
 目の前には、整備モードで停止中の自動運転シャトル。そのボンネットを開け、僕は三十分前から同じ箇所を睨んでいた。
「……おい、代理。この公差、本当に合ってるのか?」
 耳元のインカムに問いかける。返ってきたのは、合成音声特有の抑揚のない女声だった。
『設計図面データバージョン四・〇二に基づき、三Dプリント出力されたギア部品の寸法は許容範囲内です。佐久間エンジニア、再計測を推奨します』
 僕は溜息をつき、樹脂の粉にまみれた手で顔を拭った。もしこれが妻の遥のエージェントなら、「また裕太くんの勘違いじゃないの? もう一回削ってみなよ」と笑い飛ばしてくれたはずだ。だが遥は今、半年に一度の法定倫理検査中だ。人格データのドリフト補正とかで、あと四十八時間は戻ってこない。

 僕は苛立ちを抑えながら、出力したばかりの白いギアをシャトルの駆動部に押し込んだ。噛み合わせが悪い。ヤスリで削る必要があるが、どれくらい削ればいいかの勘所が、この無機質な代理エージェント相手では掴めない。
 ポケットの中で、ジャラリと重たい音がした。家の鍵の束だ。物理的な真鍮の鍵が五つほど付いている。スマートロック全盛の時代にあって、未だに玄関にはシリンダー錠が採用されているのも、この社会が「平成」という時代の空気を頑なに守り続けているせいだ。
 遥はこのジャラジャラとした音を気に入っていた。「帰ってきたって感じがするでしょ」と。その音を聞くたび、胸の奥が少しだけ痛む。

 シャトルのコンソール画面を覗き込む。iモードのような粗いドットのメニュー画面が表示されている。エラーログは「経路上の未定義障害物」を吐き出し続けていた。
 ガレージの中には障害物などない。センサーの誤作動か、ギアの噛み合わせ不良による振動がノイズになっているのか。
「代理、障害物の種別コードは?」
『不明です。ただし、参照データベースは電話帳カテゴリ・タウンページ九九年度版にリンクしています』
「は? 電話帳?」
 僕は作業台の隅に積まれた、分厚い黄色い冊子に目をやった。あれはただの装飾品だと思っていたが、システムの一部に組み込まれていたのか。

 油で汚れた手で、分厚い紙の束をめくる。ペラペラとした薄い紙の手触り。代理エージェントが座標を読み上げる。
『当該座標、北緯三五度……かつて公衆電話ボックスが設置されていた地点と一致します』
 ハッとした。
 このテストコースは、かつての市街地を模して作られている。だが、公衆電話ボックスなんてものはとっくに撤去され、データ上からも消されているはずだ。
 しかし、シャトルの古い制御アルゴリズムが、何かの拍子に「タウンページ」の古いデータを正として読み込んでしまったらしい。そこに「あるはずのない電話ボックス」を幻視して、急ブレーキをかけていたのだ。

 遥なら、きっとこう言っただろう。「幽霊みたいだね」と。あるいは「その電話ボックスから、誰かが電話をかけてるのかも」なんて物語を付け加えたかもしれない。
 でも、代理エージェントは淡々と続けた。
『設定ファイル、行番号四〇二八を無効化することで回避可能です』
 その冷徹な指摘が、今はありがたかった。情緒も物語もなく、ただのバグとして処理してくれること。それが、今の僕には必要な冷静さだった。

 指示通りにコードを書き換え、エンターキーを叩く。シャトルのエンジン音が軽やかに変わった。ギアの異音も消えた。結局、三Dプリント部品の精度は正しかったのだ。僕が疑心暗鬼になっていただけだった。

 端末を閉じ、シャトルのドアを閉める。静まり返ったガレージに、再び湿った熱気が戻ってくる。
 ポケットの上から鍵の束を握りしめた。金属の凹凸が掌に食い込む。
 遥はいない。でも、彼女が愛したこの不便で重たい鍵の感触は、ここにある。
 代理エージェントの無機質な沈黙が、今の僕には心地よかった。それは、遥が戻ってくるまでの空白を、変に埋めようとせず、そのままにしておいてくれるからだ。
「帰るか、代理」
『承知しました。お疲れ様でした、佐久間エンジニア』
 僕はガレージの照明を落とし、闇の中に浮かぶ緑色の非常口ランプを目指して歩き出した。