ポケベルが鳴る、人格の境界線で
──平成0x29A年03月09日 15:10
午後三時十分。研究所の地下二階、人格アーカイブ室。俺は今日も故障したエージェントの診断をしている。
「平井さん、そろそろ休憩取らないと倫理検査の時間ですよ」
声をかけてきたのは母さん――正確には、母さんだった人格エージェントだ。平井 節子、享年五十八。俺が二十歳のとき、脳腫瘍で逝った。今は俺の補佐として、毎日くだらない世話を焼いてくる。
「わかってるよ。あと一件だけ」
目の前のモニターには、エージェント人格の波形が映っている。依頼主は第19ブロックの主婦。亡くなった夫のエージェントが「最近、口調がおかしい」と言ってきた。
俺の腰には、なぜか今日もポケベルが鳴る。平成エミュレーションの副作用で、連絡手段が妙にアナログだ。液晶に「ケンサシツヨリ 14:00 オクレ」と表示されている。倫理検査に遅れるなという督促だ。デジタル円ウォレットから自動で遅延罰金が引き落とされる仕組みになっている。面倒くさい。
「母さん、iPod貸して」
「はいはい」
母さんが差し出したのは、俺が中学のときに買ってもらった初代iPod Shuffle。クリップ式のやつ。でも中身はストリーミング音源だ。イヤホンを耳に突っ込み、ホワイトノイズを流す。人格診断には集中がいる。
波形を追っていくと、やはりおかしい。記憶の参照パターンが、微妙にズレている。具体的には「妻を呼ぶときの語尾」が、五年前の設定と食い違っている。
「……これ、倫理検査の影響だな」
「そうね。前回の検査で、記憶の一部が『不適切』判定されたんでしょう」
母さんが肩越しに覗き込む。彼女の声は落ち着いているが、どこか他人事みたいだ。エージェントは、自分自身が検査対象になることを恐れない。恐れるのは、俺たち生者のほうだ。
ふと、自分の腕に巻いた共有型バッテリーのLEDが赤く点滅しているのに気づく。充電が切れかけている。このバッテリーは近隣十世帯でシェアする仕組みで、誰かが大量に使うと全員に影響が出る。たぶん隣の研究室が培養槽を動かしているせいだ。
「母さん、バッテリー足りなくなったら、そっちのiPodも止まるよ」
「大丈夫よ。あなたの診断が終わるまで持つわ」
彼女は笑う。その笑顔は、生前とまったく同じだ。でも、俺は知っている。彼女もいずれ、倫理検査で「不適切な記憶」を削られる。そうなったとき、彼女はまだ「母さん」でいられるだろうか。
診断レポートを作成し、依頼主にメールで送る。件名は「人格ゆらぎの原因と対処について」。どうせ読まないだろうけど、手順だから仕方ない。
立ち上がろうとしたとき、ポケベルがまた鳴った。
「ケンサシツヨリ 15:15 サイシュウツウコク」
デジタル円ウォレットの残高通知も来る。罰金が倍になっている。
「行ってきます」
「いってらっしゃい。……平井、あのね」
母さんが珍しく、俺の名前を呼ぶ。
「今日の検査で、私の記憶も少し削られるかもしれないの。でも、怖くないから。あなたが困らないようにって、検査官も考えてくれるはずだから」
彼女の声は、やっぱり穏やかだ。
俺は何も言わずに、廊下に出た。エレベーターに乗りながら、iPodのホワイトノイズを止める。静寂の中で、母さんの最後の言葉が耳に残る。
――怖くないから。
それは、生前の母さんが一度も言わなかった台詞だった。