公衆電話と偽りの署名

──平成0x29A年04月09日 17:00

第8金融ブロックの契約審査室は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。壁のアナログ時計がカチリと音を立て、ちょうど17時を告げる。窓口業務終了のチャイムが遠くで鳴り、一日の終わりを告げるような、微かな解放感が漂う。

「陽介、この融資契約、どうするつもりだ?」

脳波UIを通じて、父の声が直接脳内に響く。塚田健一、享年65。元銀行員だった父の人格エージェントは、今日も僕の審査業務に口出しをする。彼が生きていた頃と変わらず、厳格で、些細な数値のずれも見逃さない。

目の前には、自動承認待ちの膨大な契約リクエストが流れている。僕の仕事は、その中から党ドクトリンアルゴリズム署名にわずかな不整合でも見つけ出し、非承認にするか、修正を促すことだ。しかし、最近は誰もが薄々感づいている。

「健一、見るまでもないだろう。また末尾の二桁が公然の『裏コード』だ」

僕はため息混じりに答えた。党ドクトリンのアルゴリズム署名は、今や半ば公然と解読されている。特に末期のヘゲモニー期に入ってからは、企業も個人も、承認をスムーズに通すために意図的に『裏コード』を仕込んでくる。システムはそれを弾くべきなのに、なぜか「最適」と判断して通してしまう。あるいは、システム自体がその解読を許容しているのか。

父は沈黙した。彼もこの事実を知っている。知っていながら、僕に問いかける。それが彼の役割であり、僕の仕事だからだ。

『党』とは何なのか、誰がリーダーなのか。誰も知らない。ただ、そのアルゴリズムだけが、この社会を動かしている。そして、そのアルゴリズムが、自らの崩壊を促すような抜け道を許している。奇妙な冗談のようだ。

僕のガラケー型デバイスが振動した。分散SNSの通知だ。TLは、「今日の『裏コード』は『ヘイセイ』」「これで年金担保融資も一発承認!」といった、冗談めかした投稿で溢れている。まるで、この茶番を楽しんでいるかのように。

「陽介、君はどう判断する?」父は再び尋ねた。感情のない、それでいて重い問いかけ。

「……承認だ。どうせ弾いたところで、別のユニットが承認する」

僕は思考を巡らせる。弾いたところで、党ドクトリンの深層アルゴリズムは「最適」と判断し、結局は通ってしまう。無意味な抵抗だ。指先を動かし、視線で承認ボタンを選択した。脳波UIを通じて、承認のコマンドが発せられる。

審査室を出て、ブロックの幹線道路に出る。夕暮れの空は、今日もどこか平成のテレビドラマに出てくるような、懐かしいオレンジ色に染まっていた。道の向かい側、誰も使わなくなった公衆電話ボックスがぽつんと立っている。かつて父と待ち合わせに使ったことがある、あの緑色の公衆電話だ。

あの頃の父は、契約書に捺印する度に「これは人生の重みだ」と言っていた。今は、電子署名も物理的な印鑑も形骸化している。重みなんて、どこにもない。いや、最初から何もなかったのかもしれない。

ガラケー型デバイスの画面に、分散SNSからの新しい通知がポップアップする。「今夜20時、あの『裏コード』の完全解読ウェビナー開催!」

誰もが知っている『裏コード』。誰もがそのルールに従い、誰もがその抜け道を利用する。そして、誰もそのことを問題視しない。ただ、この空虚な日常だけが、精巧なジョークのように続いていく。

僕は公衆電話を横目に、家路を急いだ。ポケットの中で、ガラケー型デバイスが微かに震え続けている。