緑の受話器と、三分間の帝王
──平成0x29A年09月13日 13:30
平成〇x二九A年九月十三日、十三時三十分。人工太陽が最も激しく水耕プラントを焦がす時間帯に、肥料混合アルゴリズムが吐き出したのは、無慈悲な『エラー:承認未完了』の赤文字だった。
「お兄ちゃん、また党のアルゴリズムがへそ曲げてるよ。第〇x四F二A内閣ユニットが署名を拒否したって」
網膜に投影されたサキのホログラムが、不機嫌そうに頬を膨らませる。五年前、通学バスの事故で亡くなった妹の人格を移植したエージェント。彼女は現実の僕よりもずっと、この歪な世界のシステムに詳しかった。
「内閣の署名がないと、この三万株のハイブリッド・トマトが全部枯れる。どうすればいい?」
「緊急プロトコルが発動してる。……嘘でしょ、これ。『物理音声による閣議決定の補完』が必要だって。指定の端末からアナログ回線で署名しろって出てる」
僕は舌打ちし、プラントの隅にある物置小屋へ走った。そこには、平成エミュレート政策が生んだ「ゴミの山」がある。当時の文化を再現するために供給された、今は誰も使い道を知らない電子部品の残骸だ。僕はその中から、腐食した液漏れの臭いが漂う「乾電池の山」をかきわける。サキが僕の視界をスキャンし、有効な個体を強調表示した。
「それ! その単三電池二本、まだ電圧が生きてる。横の古い無線送信機に繋いで!」
震える手で電池をセットし、埃を被った装置を起動させる。プラントの通路を走り抜けると、トマトの葉の合間から「たまごっち・ネオ」や「写ルンです・デジタル」のAR広告がポップアップして視界を遮った。うざったい。広告を振り払いながら、僕はプラントの外壁に設置された、場違いなほど鮮やかな「緑色の公衆電話」にたどり着いた。皇室遺伝子ネットワークの末端として、この電話機はなぜか神聖視され、保守されている。
電池を繋いだ送信機を端子に差し込むと、公衆電話の液晶に「10」という数字が灯った。どこからか現れた硬貨を投入口に滑り込ませる。
『――認証を確認しました。音声案内に従って、閣議決定事項を読み上げてください』
受話器から流れてきたのは、妙に明るくて平坦な合成音声アナウンスだった。サキが僕の網膜に、読み上げるべき「ドクトリン差分断片」を表示する。
「ええと、第〇x四F二A内閣ユニットにおける、肥料配合比率の変更を承認。暗号キー、ハッシュ、アルファ……」
「お兄ちゃん、声が小さい! 判定に落とされるよ!」
サキに叱られ、僕は必死に受話器に向かって叫んだ。傍から見れば、トマト畑の真ん中で公衆電話に向かって呪文を唱える狂人だろう。だが、これが今の統治の正体だ。アルゴリズムが末期症状を起こし、人間というアナログなバックアップを「儀式」として要求しているのだ。
『承認されました。閣議決定を完了します。……おめでとうございます。ランダム選出の結果、あなたはこの通話をもって、向こう五分間の第〇x四F二A内閣総理大臣に任命されました』
受話器の向こうの合成音声が、さらりと告げた。僕は耳を疑った。
「は? 総理大臣?」
「あはは! お兄ちゃん、当選しちゃった。任期はあと三分四十五秒だって」
サキが腹を抱えて笑っている。僕の手元の受話器からは、続けざまに別の合成音声が流れ始めた。
『総理、緊急の閣議決定リクエストが三万件届いています。第一案件、旧多摩エリアの駐輪場増設の是非について。第二案件、遺伝子ネットワークにおける皇尊崇比率の〇・〇二パーセント修正。第三案件……』
僕は緑の受話器を握りしめたまま、立ち尽くした。トマトを救うために電話をかけたはずが、僕は今、この国の断片を五分間だけ背負わされている。トマトの肥料比率を承認したのも、きっとさっきまで総理大臣だった誰かなのだ。誰かが乾電池をかきわけ、公衆電話を探し、同じように叫んだ結果なのだ。
「お兄ちゃん、早く! あと二分だよ。とりあえず全部『承認』って言えば終わるから!」
僕は深呼吸し、トマトの甘い匂いとAR広告のノイズに囲まれながら、受話器に向かって「承認」を連呼し始めた。それが、この平成〇x二九A年の、正しい午後の過ごし方だった。