静止する摩尼車と、乾電池の山
──平成0x29A年10月13日 14:00
平成0x29A年10月13日、午後二時。第9聖域管理区、自動搬送式納骨堂「八雲」。
エミュレートされた線香の匂いが、空調の乾燥した風に混じって鼻腔をくすぐる。この匂いは、アルゴリズムが「日本人の精神安定に最適」と定義した平成初期の成分配合らしい。もっとも、本物の線香など、資料館の動画でしか見たことがないが。
「誠、またエラーが出てるわよ。あんた、ちゃんと見てるの?」
左耳のデバイスから、母さんの声が響く。享年六十五。和菓子屋の女将だった母さんは、死してなお、僕の仕事の不手際を見つけるのが得意だ。法定倫理検査を先月パスしたばかりの彼女の思考回路は、生前よりも少しだけ辛辣になっている気がする。
「わかってるよ、母さん。今、センサーの保守中なんだ」
僕は足元に転がる乾電池の山を、プラスチックのバケツに放り込んだ。平成中期に流行したという、旧式の赤外線感知式おみくじ機。その動力源である単三電池のストックが、この施設の地下倉庫には山ほど眠っている。現代の無線給電グリッドに繋ぐよりも、この「重みのある棒」を詰め替える儀式の方が、参拝客には『伝統の重み』として喜ばれるのだから皮肉なものだ。
僕は作業着のポケットから、触覚フィードバック端末を取り出した。掌に収まる滑らかな金属体。画面には、第402ヘゲモニー期における「党ドクトリン」の電子署名要求が点滅している。
今回のリクエストは、ある門徒からの「戒名への差分適用」だ。亡くなった家族のデジタル人格に、生前の功績を反映した称号を後付けしたいという、よくある変更申請。だが、端末が返す振動は、不快な拒絶のバイブレーションだった。
「署名のハッシュ値が一致しません。現行ドクトリンアルゴリズムとの乖離:0.00004%」
「またか」
僕は溜息をついた。党が三百年前に残した統治アルゴリズムは、もう至るところで綻びを見せている。数分ごとにランダム選出される「内閣ユニット」の総理大臣たちが、五分間の任期中に適当に承認したパッチの積み重ねが、こうした細かな不整合(グリッチ)を生んでいるのだ。
「誠、不整合は『不浄』と同じよ。放っておくと、ネットワーク全体が祟られるわよ。ちゃんと署名し直しなさい」
母さんの言葉は、宗教的な畏怖とデバッグの推奨が混ざり合っている。この時代の「信心」とは、アルゴリズムの整合性を保つことに他ならない。
僕は作業台の上に、一枚の古びた紙を広げた。参拝客が忘れ物として残していった「紙の地図」だ。かつてこの国に存在した鉄道路線や、今は海に沈んだ沿岸の町が、色褪せたインクで描かれている。なぜか、このアナログな座標記録を眺めていると、デジタル署名の「正解」が見えてくるような気がするのだ。
指先を端末に押し当てる。触覚フィードバックが、数珠を繰るような断続的なクリック感を伝えてくる。僕はドクトリンの深層に潜り、不整合を起こしている数ビットのコードを、手動で「もっともらしい値」に書き換えた。厳密な正解ではない。ただ、システムが「許容範囲内」と見なす程度の、ほどよい嘘。
数秒後、端末が青く光り、承認のシグナルを発した。どこかのユニットで、名前も知らない誰かが「内閣総理大臣」としてこの変更を形式的に承認したはずだ。あるいは、人間が介在するまでもなく、自動処理されたのかもしれない。
「よし、これで功徳は積めた」
僕は立ち上がり、乾電池のバケツを持って納骨堂を後にした。出口にある省人化レジの前に立つ。並んでいるのは、平成時代のキオスクを模したレトロな棚だ。僕はそこで、常温のワンカップ大関を一つ手に取った。レジのカメラが僕の遺伝子ネットワークの端っこ――微かに流れる皇室由来の塩基配列――をスキャンし、市民ランクに応じた決済を瞬時に完了させる。お釣りも出ない、音もしない決済。
「母さん、今日の仕事は終わりだ。一杯やるよ」
「あんた、まだそんな旧式の酒を飲んでるの。体に悪いわよ」
母さんの小言をBGMに、僕は地図を畳んだ。ドクトリンが崩れていようと、署名が嘘であろうと、この場所では死者たちだけが静かに並列処理されている。世界の歪みは、いつだってこの納骨堂の空調の音のように、ただ淡々と、そこに在るだけだった。