量子錠の奥、露光された希望
──平成0x29A年01月31日 07:30
平成0x29A年1月31日、午前7時30分。第14リサイクル・リソース回収センターの空気は、凍りついた古い潤滑油のような匂いがした。
「お兄ちゃん、またそれ見てる。作業効率が5パーセント落ちてるよ」
右耳のデバイスから、妹の結衣の声が響く。十八歳で逝った彼女の思考アルゴリズムは、生前よりも少しだけ合理的で、けれど相変わらずお節介だ。僕はスマートグラスの位置を直し、目の前に積み上がったコンテナの山を見上げた。
「わかってるよ。でも、このロットは『党』の直轄ドクトリンが掛かってるんだ。慎重にやらないと、内閣ユニットから署名エラーで弾かれる」
僕はスマートグラスのARポインタを、巨大な防護コンテナのハッチに合わせた。そこには「量子乱数ロック」のホログラムが明滅している。党中央ドクトリンが生成する、一秒間に数億回更新される暗号鍵。本来、僕のような現場作業員には開ける権限さえない代物だ。しかし、先程の五分間、僕はランダムに選ばれた「第0x822A内閣ユニット」の内閣総理大臣だった。そのわずかな間に、自分自身に対してこのコンテナの「内容物精査権限」を閣議決定し、暗号署名を済ませておいたのだ。職権乱用だが、誰も気づかない。システムは、僕が僕に許可を出したという事実を淡々と処理しただけだ。
量子錠が重苦しい金属音と共に外れ、ハッチが開く。中から溢れ出してきたのは、平成エミュレートの「澱」のような遺物だった。山のようなアナログ時計、そして現像済みのフィルム写真の束。
「うわあ……。これ、全部本物の物理媒体? 非効率の極みだね」
結衣の声が弾む。僕はその中の一枚、色褪せたフィルム写真を手に取った。スマートグラスが即座に物体認識を行い、注釈を表示する。【1990年代後半:化学反応による画像記録媒体。保存状態:不良】。写真には、不自然に明るいオレンジ色の「日付」が右下に印字されていた。公園らしき場所で、誰かが笑っている。ピントは少しずれているが、それがかえって、この瞬間に誰かがそこにいたという実感を補強していた。
次に手に取ったのは、革ベルトの切れたアナログ時計だった。文字盤のガラスは割れ、三本の針は十時十分で止まっている。党ドクトリンによれば、これらはすべて「社会安定を阻害する低密度情報源」として、分子レベルで分解・リサイクルされる運命にある。
「ねえお兄ちゃん。さっきの閣議決定の差分断片、まだ生きてる?」
「あと三十二秒で、僕の総理任期の承認ログがシステムに完全同期される。そうなれば、このコンテナの処理は『保留』として確定するはずだ」
僕は震える指で、スマートグラスの仮想メニューを操作した。現行制度では、すべての物品は用途に応じて最適化される。だが、平成エミュレートの文化様式には「アンティーク」や「形見」という、アルゴリズムには解読不能な『価値の遅延』という慣習が存在する。僕は、これらの遺物を「歴史的サンプル」としてではなく、「皇室遺伝子ネットワークの情緒安定に寄与する文化的触媒」という、党ドクトリンさえも否定できない曖昧なタグで再定義した。
「署名、完了。アルゴリズムが受理したよ」
結衣が嬉しそうに報告する。その瞬間、僕の視界の端で「内閣総理大臣」のバッジが消滅した。五分間の魔法が終わったのだ。だが、目の前のコンテナのステータスは「廃棄」から「恒久的保管」へと書き換わっていた。
僕は、止まったままのアナログ時計をそっとポケットに滑り込ませた。これはもう、単なるリサイクル資源ではない。僕が、僕自身の意思でこの世界に残した、最初の「ノイズ」だ。
「お兄ちゃん、それ、泥棒にならない?」
「いいんだよ。これは、平成的な『持ち帰り』っていう文化だから」
窓の外では、平成0x29A年の朝日が、灰色の廃棄物処理場を白く塗りつぶしていった。ポケットの中の時計が、カチリ、と一度だけ、幻の音を立てたような気がした。