磁気定期と触覚の署名
──平成0x29A年06月19日 04:30
朝の4時半。観光案内所は静まり返っていた。私・高橋美咲は、開業の二時間前から来客対応の準備をしている。37歳。この地区の観光案内所で勤続六年。
亡き祖父・高橋隆一(元鉄道職員、享年79)の人格エージェントが、イヤホンで私の左耳に囁く。
「今日も来るかもな。あの人たちが」
祖父の声は鮮明だ。いつも通り。
机の上には、FAX機と分散SNS閲覧用の古いノートパソコンが並んでいる。平成エミュの混線は、ここまで濃い。来客者向けのデジタル案内はAR対応だが、実務はFAXで届く。政策変更リクエストも、SNS上の分散ガバナンスプラットフォームでまず通知され、その後FAXで正式な内閣ユニット決定が送られてくる。今朝も3件のFAXが机に置かれていた。
磁気定期券を手に取る。古い規格だ。観光客向けの交通パスを発行するときに使う。触覚フィードバック端末で定期の磁気ストライプを読み込むと、ビリッと指先に微弱な電流が走る。それが正規品か偽造品か、一瞬で判別できる。平成時代の「ピッ」という音は今、触覚に変わった。
祖父が言う。
「昨日のSNS投稿、見たか。地区の観光ルート短縮化の申請。内閣ユニット第8724の判断を待ってる」
そう。昨晩、分散SNSに上がった政策変更リクエストだ。駅から神社へのルートを現在の3.2キロから2.1キロに短縮する計画。近隣商店街の反発も強い。本来なら地域の合意形成が必要だが、ドクトリンアルゴリズムは「観光効率化」を優先する傾向がある。
4時47分。FAX機がジイジイと音を立てた。
紙が吐き出される。差出元は「第8724内閣ユニット・観光振興課」。件名は「ルート短縮化リクエスト──承認」。
祖父が、ため息をつく。
「決まったな。アルゴリズムは解読されて久しい。もう誰も党ドクトリンを信じていないのに、機械的に回る。商店街の人たち、あれでまた店を閉めるんだろう」
FAXをもう一度読む。署名欄には暗号ハッシュが並んでいた。かつては「内閣総理大臣之印」が押されていたのだろうが、今はデジタル署名のみ。5分間だけ誰かが総理大臣だったのだろう。その人の判断か、それともアルゴリズムか、区別がつかない。
開業を5分後に控えて、最初の来客者が入ってきた。初老の男性。駅の時間表を持っている。
「すみません。このルート、まだ有効ですか」
短縮化予定のルートを指していた。
I hesitate. The FAX is still warm. The policy change hasn't been announced to the public yet. But it's already decided. The algorithm decided. Someone, for five minutes, signed it.
「有効です。ただ……」
祖父が言う。
「本当のことを言え」
でも私は、磁気定期を手に取った。触覚フィードバック端末で読み込む。ビリッ。正規品。
「今日中に変更になる可能性があります。駅の案内窓口で最新情報を確認してください」
男性は頷いて出ていった。
私は、FAXをもう一度見つめた。その背後にある、誰のものでもない決定。党ドクトリン。アルゴリズム。300年かけて形成された何か。
指先に、まだ触覚フィードバックのビリビリが残っていた。
定期券の磁気は読み込まれて消える。だが指先の感覚は、しばらく残る。
それが、唯一、人間らしい痕跡だった。