受け継ぐエラーコード

──平成0x29A年11月24日 01:40

スマートグラスの右端で、赤い警告灯が明滅を始めた。けたたましいアラーム音はない。この深夜の管制室では、聴覚情報は極力ノイズとして排され、視覚に集約されるのが決まりだった。

『第0x3C81A内閣ユニット主導、広域災害訓練フェーズ4-Bに移行失敗。原因:署名不一致』

グラスに表示された無機質なテキストを、俺は舌打ちしながら睨みつけた。
「またかよ、党ドクトリンの劣化は」

『落ち着け、陸。呼吸を整えろ』

鼓膜に直接響く声。エージェントとして俺のそばにいる、親父の声だ。生きていれば、もう七十を超えていたはずの。

「分かってる。けど、訓練が止まるのはまずい」

管制室の巨大な窓の向こうには、非常用電源で煌々と光る高層農業プラントのシルエットが浮かんでいる。あの光は、俺たちが守るべき日常の象徴だ。シミュレーションとはいえ、それを止めるわけにはいかない。

『エラーコードから逆引きしろ。おそらく、旧式の物理バックアップを参照しようとして、現行アルゴリズムとの差分で弾かれたんだろう』
「旧式って……まさか」

コンソールの下、埃をかぶったラックに手を伸ばす。引きずり出したのは、ごついプラスチックケースに収まったMOドライブだった。カシャン、と鈍い音を立ててディスクを飲み込む。

『その通りだ。80年前の災害時優先インフラリスト。党がまだマシだった頃のデータだな』

スマートグラスの表示を切り替えると、MOディスクから読み出されたデータ構造がAR表示される。案の定、署名領域の一部が破損データとして赤く点滅していた。

『桁落ちだ。俺が現役だった頃にもよくあった。システムの穴を、最後は人間の手で埋めるしかない』

親父は大規模水害で殉職した。土砂に埋もれた通信施設を、手動で再起動させようとして。

「どうやって? 暗号の復元なんて、俺には……」

『昔、教えただろう。記憶の訓練だと言って。年賀状の仕分けコードだよ』

年賀状? 懐かしい単語に、一瞬思考が止まる。子供の頃、親父が手書きのメモを見せながら、俺に暗唱させた数字と記号の羅列。あれが?

『物理キャビネットの三段目。俺が使ってた手帳があるはずだ』

言われた通りに手帳を探し出す。日に焼けて茶色く変色した革の表紙。ページをめくると、独特の癖がある親父の字が並んでいた。走り書きされた出動記録の隅に、見覚えのあるコード表があった。

『そのページの隅だ。俺がお前に最初に教えたやつ。あのプラントができた年のコードだ』

スマートグラスでコードをスキャンし、破損した署名データにかぶせるように手動で入力していく。一文字、また一文字。指先がわずかに震える。
これはただの訓練じゃない。親父が守ろうとしたものを、俺が今、受け継ぐための儀式のようなものだと思った。

最後の文字を打ち込み、エンターキーを押す。
一瞬の沈黙の後、スマートグラスの赤い警告灯が緑に変わった。

『……認証完了。訓練シナリオ、フェーズ4-Bに移行します』

システム音声が流れ、止まっていたシミュレーションが再び動き出す。俺は大きく息を吐き、椅子の背もたれに体を預けた。

『よくやったな、陸』
親父の声は、いつもより少しだけ穏やかに聞こえた。
『もう俺がいなくても、大丈夫そうだ』

その言葉に、俺は何も返せなかった。
スマートグラスの向こうで、高層農業プラントの灯りが静かに揺れている。俺が受け継いだのは、古ぼけた手帳のコードなんかじゃない。この光を守り抜け、という、声にならない親父の最後の命令だ。

「……いや、まだまだだよ、親父」

呟いた声は、誰に届くでもなく、深夜の管制室に静かに溶けていった。