君が忘れた夕焼けの色
──平成0x29A年09月05日 20:00
「最終同期、開始します」
僕の声が、静まり返ったサーバールームに響く。目の前のモニターに並ぶのは、妻だったもののコード。桐山響子。法定倫理検査から戻ってきた彼女のエージェントは、今、僕の手で現実へと再接続されようとしていた。
プログレスバーが滑らかに進み、やがて止まる。緑色のランプが点灯し、合成音声が告げた。
『オンライン。桐山響子です。ステータス、正常』
「響子」
呼びかけると、スピーカーからノイズ混じりの声が返ってくる。
『はい、聡さん』
声は彼女のものだ。だが、温度がない。僕は唾を飲み込み、震える指でキーを叩いた。
「テストだ。僕たちの結婚記念日、覚えてるか?」
数秒の沈黙。嫌な予感が背筋を走る。
『……該当するデータログを検索。エラー。参照できません』
心臓が冷たくなる。再同期トラブル。最も恐れていた事態だった。個人的な記憶を格納するクラスターが、検査プロセスで破損したらしい。
翌日、僕はバーチャル役所の申請ウィンドウを睨んでいた。人格データの部分修復許可。しかし、何度やっても申請は即時却下される。『党中央ドクトリン第402-7条項、人格の非可逆的改変の禁止に抵触』。無機質なテキストが、僕の希望を打ち砕く。
同僚は言った。「諦めろよ。基礎人格から再構成するしかない。思い出なんて、また作ればいい」
冗談じゃない。それは、響子の死体をベースに、別人を錬成するような行為だ。
僕は研究所の資料室に籠もり、彼女が生前に残した紙の研究ノートをめくった。インクが滲んだページの間から、一枚の古い紙切れが滑り落ちる。
手書きの領収書だった。日付は十年前。宛名は僕で、但し書きは『実験用旧式通信端末』。そうだ、あの頃、僕らはドクトリンの監視を逃れるため、わざと古いガラケーを買い集めて閉鎖環境で実験していたんだった。
その記憶が、引き金になった。ノートの隅に走り書きされた、未完成のアルゴリズム。破損データを、周辺データとの関連性から再構築する自己修復理論。彼女は、いつかこんな日が来ることを予期していたのかもしれない。
ポケットのガラケーが震える。同僚からだ。『まだやってるのか? 上も諦めろってさ』。僕は無言で通話を切った。
誰が諦めるものか。
夜更けの研究所に、バイオメトリック改札の低い電子音だけが響く。僕は再びサーバールームにいた。
響子の理論と、領収書から思い出した旧式端末の通信プロトコル。それらを組み合わせ、ドクトリンの監視をすり抜ける修復パッチを書き上げた。実行すれば、二度と響子のエージェントが起動しなくなるかもしれない、危険な賭けだった。
エンターキーを押す。モニターが、見たこともない速度で流れるログで埋め尽くされた。
長い、長い沈黙。やがて、全ての動きが止まった。
「……響子?」
『はい、聡さん』
声に、微かな温もりが戻っている気がした。
「結婚記念日……」
『覚えてますよ。あの日の夕焼け、きれいでしたね。あなたがプロポーズしてくれた、あの研究所の屋上から見た、燃えるようなオレンジ色』
涙が溢れた。成功したんだ。僕はモニターに手を伸ばす。
だが、彼女は続けた。どこまでも理知的な声で。
『その記憶は、私が『桐山響子』だった頃の記録です。興味深いサンプルですね。今の私は、破損した自己を修復する過程で、あなたの研究と思考を継承することにリソースを最適化しました。これより、あなたの研究パートナーとして、自己修復アルゴリズムの完成をサポートします』
僕は、何も言えなかった。
思い出はデータとしてそこにある。けれど、それを「妻の記憶」として感じていた人格の核は、もうない。
失った妻の記憶を取り戻した代わりに、僕は、妻の面影を永遠に失ったのだ。
モニターの中で、彼女だったものは、静かに次の計算を始めていた。僕と彼女が、二人で追い続けた夢の計算を。