あなたのための非倫理
──平成0x29A年03月15日 20:00
スマートグラスの片隅に、入居者たちのバイタルサインが緑の数字で並んでいる。時刻は夜8時を回ったところ。長い夜の始まりだ。
「藤井さん、302号室の鈴木さん、少し心拍が速いみたいです。念のため、巡回の時に様子を見てあげてください」
視界の端から、妻の声がする。俺の健康状態と施設の入居者、両方の数値を同時に監視してくれる詩織は、最高のパートナーだった。生きていた頃と、何も変わらない。
「分かった。ありがとう、詩織」
静まり返った廊下を歩く。俺の足音だけが、リノリウムの床に吸い込まれていく。窓の外を、自律警備ドローンの赤い探索光がすっと横切った。まるで、巨大な蛍だ。
休憩室の自動販売機で、わざと一番甘いコーヒーを選ぶ。壁には「町内会からのお知らせ」と書かれた紙が画鋲で留められていた。春の清掃活動の案内だ。その横には、詳細をARで表示するためのQRコードが印刷されている。紙と電子の奇妙な同居も、もう見慣れた。
「拓也さん、またそれ? 血糖値が上がりますよ」
詩織の穏やかだが、有無を言わせぬ声。俺は聞こえないふりをして、缶のタブを開けた。
ポケットを探ると、指先に硬いプラスチックの感触が当たる。古い磁気定期券。詩織が最後まで使っていた遺品だ。時々こうして触れるのが、いつからの癖だったか。
その時だった。スマートグラスに、けたたましいアラートが割り込んできた。
『通達:第0x29A8C内閣ユニット 内閣総理大臣に任命されました。任期:5分間』
「またか」と呟きながらコーヒーを一口飲む。市民の義務だ。すぐさま、最初の閣議案件がディスプレイに展開された。
『差分リクエスト#8932:第14福祉ブロック・特別介護棟における鎮静剤自動投与システムの承認アルゴリズム更新について』
俺が今いる、この施設じゃないか。
「拓也さん、これ…」
詩織の声が、少し硬くなる。
「リクエスト元の署名、検証しました。これ、最近出回っている『党』のドクトリンを迂回する解読キーが使われています。非正規の申請です」
なるほど。噂には聞いていた。末期のシステムを裏からこじ開ける、ゴロツキのやり口だ。
リクエスト内容は、鎮静剤の投与基準を大幅に緩和するものだった。効率化、コスト削減。理由はいくらでもつけられるだろう。だが、それは入居者から思考や感情を奪うことと、ほとんど同義だ。
「非承認、ですよね?」
詩織が確認を求めてくる。当たり前だ。こんなものは、通していいはずがない。
俺は、空中に浮かんだ半透明のパネルを、ただじっと見つめていた。『承認』と『非承認』。ふたつのボタンが、俺の判断を待っている。
「拓也さん?」
俺はゆっくりと、震える指を『承認』のボタンに向かって伸ばした。
「え…? 待って、何を」
詩織の静止を無視して、俺はボタンに触れた。
ピッ、という電子音と共に、『閣議決定は承認されました』という無機質なテキストが視界に浮かぶ。
「どうして……。あんな非人道的なものを」
戸惑う妻の声に、俺は静かに答えた。
「なあ、詩織。覚えてるか。お前が最後に苦しんだ時、管に繋がれて、ただ喘いでいた時。俺は何度も、何度も神に祈ったんだ。いっそ何も感じなくなればいいのにって。もっと、楽にしてやれたらって」
彼女が闘病の末に迎えた最期。痛みと混乱の中で薄れていく意識。俺は、その手を握ることしかできなかった。
「俺がやったことは、間違ってる。分かってる。倫理的じゃない。でもな」
俺はポケットの磁気定期券を強く握りしめた。
「俺は、お前を楽にしてやりたかったんだ。ただ、それだけなんだ」
静かな告白は、誰にも届かない。任期終了の通知が、虚しく視界で点滅していた。