あなたの好きだった面倒
──平成0x29A年08月28日 15:00
西陽がフローリングに長い影を落とす。私はローテーブルに広げられた書類の束を前に、何度目か分からないため息をついた。
「自治会からの住民投票案内。議題は『第17居住ブロックにおける物理認証への段階的移行について』……ねえ拓也、これ、どう思う?」
脳内に、軽薄なくらい明るい声が響く。
『どう思うって、最悪だろ。スマートドアの虹彩認証を、わざわざ物理キーに戻そうなんて正気かよ。党のドクトリンもいよいよ末期だな』
夫だった拓也の声だ。彼のエージェントはいつも通り、思ったことをそのまま口にする。
「三百年前の文化をリバイバルするにしても、センスが悪すぎるわ。資産証明に、わざわざ発行させた紙の通帳のコピーを添付しろって書いてある」
『うわ、懐かしいな通帳! 俺が死んだ頃にはもうペーパーレスだったのに』
その時、ピロン、と軽やかな電子音が鳴った。玄関のスマートドアが来訪者を告げている。生体認証をパスしていない相手だ。モニターには、隣に住むファムさんの顔が映っていた。彼女は80歳を超えているはずだ。
ドアを開けると、ファムさんは申し訳なさそうに同じ書類の束を抱えていた。私の耳に着けた自動翻訳イヤホンが、彼女の国の言葉を流暢な日本語に変換してくれる。
「ごめんなさいね、これの書き方がよく分からなくて……」
結局、小一時間かけて彼女の書類作成を手伝うことになった。慣れない文字を必死で書き、指定された箇所に古い印鑑を押す彼女の背中は、やけに小さく見えた。
ファムさんが帰っていくのを見送り、私はソファに崩れ落ちるように座った。疲労感がどっと押し寄せる。拓也が慰めるように囁いた。
『お疲れ、佳奈。やっぱこんな面倒、廃止すべきだよな』
「……そう、だね」
同意しかけた私の視線が、ふとテレビの横で埃をかぶっている古いゲーム機に吸い寄せられた。青いロゴが印刷された、黒い箱。プレイステーション2。
拓也が大切にしていた遺品だ。
『あ、PS2。久しぶりにやらないか? ディスクまだ読めるかな』
「データ、メモリカードに残ってるかな」
『あったりまえだろ。俺たちのセーブデータは永遠だぜ』
そんな軽口に、少しだけ口元が緩んだ、その瞬間だった。
視界の隅に、青い半透明のウィンドウがポップアップした。
【第0x5C3A1内閣ユニットの内閣総リ大臣に任命されました。任期は5分です】
続いて表示されたのは、見慣れた政策変更リクエストの差分断片。
【議案:第17居住ブロックにおける物理認証への段階的移行を承認するか】
『うお、マジか! 佳奈、チャンスだぞ! 今すぐ非承認にしちまえ! こんな面倒な制度、俺たちの手で止めてやろうぜ!』
拓也が興奮したように叫ぶ。私も、指を動かしかけた。
でも、動かせなかった。脳裏に、ファムさんのインクで汚れた指先と、ほっとしたような笑顔が浮かんで消える。
私にとってはただ面倒なだけの手続きが、彼女にとっては、触れて、確かめられる、唯一の安心だったのかもしれない。
私は、ゆっくりと「承認」のボタンに意識を合わせた。
『え……なんでだよ、佳奈?』
驚く拓也の声が、頭に響く。
私はテレビの横に向かい、PS2のコントローラーを手に取った。ひんやりとしたプラスチックの感触が懐かしい。
「だって」
私は誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。
「あなたも、こういう面倒なもの、好きだったじゃない」