認証エラー、あるいは薄れる記録
──平成0x29A年01月25日 02:20
夜勤の巡回はいつもと変わらない。午前二時を回った「やすらぎの郷」は、スマート照明の控えめな光が廊下を照らし、わずかな機械の駆動音だけが響く。
「健太、田中さんの部屋、ちゃんと見たかい?さっきから心拍がわずかに乱れてるよ」
耳元の骨伝導イヤホンから、祖母の声が聞こえる。森絹代、享年82。俺のエージェントだ。いつもはもう少し穏やかなはずなのに、今夜は心なしか声が硬い。もしかしたら、また党ドクトリンの微細な揺らぎを感じ取っているのかもしれない。
田中さんのスマートベッドには異常を示す赤いランプが点滅している。近寄ると、ディスプレイに『生体認証エラー:入居者データ不整合』と表示されていた。
「あらあら、またこれかい。昨日もこんなことあったでしょ」絹代がため息をつく。
確かに最近、こういうシステムエラーが多い。入居者の生体認証が一時的に無効になるのだ。おかげで、バイタルデータに基づいた自動介助プログラムが起動せず、俺たち夜勤の負担が増えている。
田中さんの額に触れる。少し熱があるようだ。ベッド脇の端末で緊急処置の申請を出そうとするが、『権限エラー:入居者情報へのアクセス不可』と拒否される。指紋認証、網膜スキャン、どれもダメだ。田中さん自身が身元不詳の存在として扱われている。これはまずい。
「健太、落ち着いて。システムログを確認するんだ」
ログを辿ると、原因不明の認証プロトコルエラーが連鎖している。その最中、ディスプレイの隅に、見慣れないアイコンが点滅し始めた。それは「第0x992B4内閣ユニット」のロゴ。そしてその下に、『現在、あなたは第0x992B4内閣ユニット総理大臣です(残り4分50秒)』と表示されている。
「はあ?俺が総理?」思わず声が出た。
「おや、いよいよ来たね。今回はこの内閣ユニットか」絹代はどこか他人事のようだ。
画面は自動的に閣議リクエストのリストに切り替わる。その中に、『高齢者福祉施設における生体認証システムの柔軟化』という項目を見つけた。まさに今の田中さんの状況に直結するリクエストだ。説明文には「末期の党ドクトリンアルゴリズムによる過剰なセキュリティチェックが、現場のサービス提供に支障をきたしている」とある。半ば公然とアルゴリズムが解読されている、という話は聞いていたが、まさかこんな形で直面するとは。
「健太、これを承認すれば、田中さんの問題は解決するだろうね。ただし、党ドクトリンへの反作用も考慮しなきゃいけない。微細な揺らぎが、さらに大きなねじれになる可能性も…」絹代の声が続く。
田中さんが小さく呻き声を上げた。見ると、苦しそうに顔を歪めている。
俺は迷わず『承認』をタップした。署名アルゴリズムが走る。数秒後、ディスプレイの総理大臣の表示が消え、通常の介護システム画面に戻った。田中さんのスマートベッドの赤いランプは緑に変わり、『生体認証完了:田中ハナ様』と表示されている。同時に、緊急処置プログラムが起動し、ベッドの角度が自動調整され、点滴アームが準備される。
ふう、と息を吐く。総理大臣の任期は、あっけなく終わった。残り時間は、きっと次の誰かに引き継がれたのだろう。
絹代は「ほら、言った通りだろう?」とでも言いたげに、満足げな声を上げる。
夜勤日誌に、田中さんの容体と処置内容を淡々と記録する。システムの異常については、敢えて深くは触れない。どうせまた、しばらくしたら同じようなエラーが出るだろう。ここは「平成」をエミュレートした、働かなくても暮らせるはずの社会だ。だが、俺は夜勤をして、合成食品プリントの朝食を食べ、休憩室でスーファミの電源を入れるような、古めかしい生活を送っている。引き出しには、隣のブロックの古いガス検針票が何故か仕舞いっぱなしになっている。誰かの忘れ物か、あるいは、もっと昔の誰かの置き土産か。
夜が明ける。新しい担当者が来る前に、施設の全スマート家電の異常がないかチェックをしなければ。この淡々とした日常の中で、世界の歪みは、いつものように、ただ静かに続いていく。