ブラウン管に咲く透明な傘

──平成0x29A年05月22日 14:30

 管理室の奥で、分厚いガラス画面のCRTモニターがジジジと低い唸りを上げている。画面上を走る走査線の向こう側、モノクロの監視カメラ映像には、ざあざあと降りしきる雨と、エントランスで立ち尽くすロボ清掃員の姿が映っていた。
 平成0x29A年、五月二十二日。時刻は一四時三〇分を回ったところだ。

「おい麻衣、またあのポンコツが固まってんぞ」
 視界の端にポップアップした父のエージェントウィンドウが、呆れたように明滅した。父・佐倉健一、享年六十五。生前は街の不動産屋を営んでいた、口うるさい男だ。
「分かってるって。今見てる」
 私はため息をつきながら、手元のキーボードを叩いた。キーストロークの深い、カチャカチャと音が鳴る旧式の入力装置だ。この第4居住ブロック「サンハイツ練馬」は、入居者の平均年齢が高いこともあって、設備のリプレースが遅々として進んでいない。

 モニター上のステータス表示には、『未定義オブジェクト検知:進行不可』の文字が点滅している。
 私はレインコートを羽織り、管理室を出てエントランスへ向かった。
 湿った空気の中に、古いコンクリートと雨の匂いが充満している。ロボ清掃員――愛称「クリーンボーイ」は、自動ドアの脇にある傘立ての前で、赤いLEDを回転させながら沈黙していた。
 そのセンサーが捉えていたのは、一本のビニール傘だ。
 持ち手には何も書かれていない。誰かが「ご自由にどうぞ」という善意で置いていったものだろう。平成的慣習が生んだ、ささやかな共有財産だ。

「所有者IDなし、か。融通が利かねえな」
 父の声が脳内に響く。
 現行の保安ドクトリンでは、所有権タグのない物体は「潜在的危険物」または「不法投棄ゴミ」として処理される。クリーンボーイはこれを排除しようとしたが、重量と形状がゴミの定義から逸脱していたため、判断保留ループに陥ったのだ。
 本来なら、管理者の私が量子署名入りの強制排除コマンドを送れば済む話だ。端末を取り出し、承認フローを呼び出す。

 その時、エレベーターから小柄な老婆が降りてきた。三〇二号室の田中さんだ。
「あらやだ、すごい雨」
 田中さんは困ったように空を見上げた。手には買い物袋を持っているが、傘はない。
「田中さん、傘お忘れですか」
「ええ、降らないと思って……。困ったわねえ」
 彼女の視線が、ロボ清掃員がブロックしているビニール傘に向けられる。
 私は手元の端末で「排除」のボタンを押そうとして、指を止めた。これを排除すれば、傘は粉砕処理用ダストシュート行きだ。

「麻衣、分かってるよな」
 父の声色が少し変わった。生前、客に甘いと母によく叱られていた時と同じトーンだ。
「昔はな、こういうのは『天下の回りもの』って言ってな。困った時はお互い様で回してたんだよ」
「でも、システム上は……」
「システムが風邪引かせてどうすんだ」

 私は苦笑して、排除コマンドをキャンセルした。代わりに、ポケットから黒の油性マジックを取り出す。
 ロボ清掃員の前に屈み込み、ビニール傘の白い持ち手に、きゅっきゅっと文字を書き込んだ。
『サンハイツ共有』
 そして端末を操作し、私の管理者権限でこの文字列を「一時的ゲストID」として登録する。ブロックチェーンの末端に、この傘の存在証明を無理やり割り込ませる。
 最後に、私の生体認証と紐付いた量子署名を送信。

『承認完了:オブジェクト・カテゴリ変更』

 クリーンボーイのLEDが赤から緑に変わった。ウィーンという駆動音と共にアームが縮み、道を空ける。
「田中さん、これ、管理室の貸出用ってことにしておきますから。使ってください」
 私が傘を差し出すと、田中さんは顔をほころばせた。
「まあ、助かるわあ。ありがとうね、管理人さん」

 田中さんがビニール傘を開くと、透明な花がぱっと咲いたように見えた。彼女が雨の中へ歩き出すのを、クリーンボーイが再びブラシを回転させながら見送る。
 管理室に戻ると、CRTモニターの走査線ノイズが少し落ち着いたように見えた。
「へっ、粋な真似しやがって」
 父の憎まれ口が、少しだけ温かく響いた。