あなたの訛りが聞こえた午後
──平成0x29A年05月23日 17:10
西陽がアスファルトを橙色に染める。私の歩く先、空中に浮かんだ公共ARサインが、淡い緑色の矢印で『斉藤様邸』と示していた。味気ないゴシック体の文字は、第0x08F2内閣ユニットの管轄だっけ。どうでもいいけど。
角を曲がると、古い集合住宅の脇にある町内会掲示板が目に入った。アクリル板に挟まれた紙の『防犯標語』の上に、ARの『防災ドリル通知』が明滅している。古いものと新しいものが、ちぐはぐに重なり合って、この世界はいつも少しだけ眠そうだ。
ピンポン、という気の抜けたチャイム音の後、ゆっくりとドアが開く。
「あら、広瀬さん。いつもありがとうね」
斉藤さんが、しわの刻まれた手で私を招き入れた。
「こんにちは、斉藤さん。お加減いかがですか」
「ええ、まあまあよ。それより、あの子がね……」
斉藤さんの視線の先、部屋の隅で明滅するホログラムに目をやる。彼女の亡き夫、斉藤さんのエージェントだ。半透明の姿が、安定せずにノイズ混じりに揺れている。
『ミサキさん、ヨウコソ。ヨウコソ、ミサキさん』
同じ言葉を繰り返している。人格ゆらぎ、と呼ばれる症状。最近、古い世代のエージェントによく見られる。
『現行の法定倫理規定アルゴリズムとの同期不全が原因とされています。マニュアル通り、再起動を推奨します』
私の耳元で、夫である翔太のエージェントが冷静に囁く。彼の声はいつも、正しい。
「再起動、してみますか?」
私が尋ねると、斉藤さんは悲しそうに首を横に振った。
「そうするとね、あの子、また少しだけ他人行儀になっちゃうのよ」
棚の上には、黄色いひよこのキャラクターが描かれた古いラーメン丼が飾ってあった。何十年も前のインスタントラーメンの景品だという。斉藤さんの、たった一つの自慢話。
そのとき、ノイズ混じりのエージェントが、ふっと斉藤さんの方を向いた。
『なあ、和子。腹、減らないか。あれ、食いたいなあ。あのラーメン』
途端に、ループしていた音声が、驚くほど滑らかな生前の口調に変わる。
『景品の丼、お前が当てて、大喜びしたやつ』
斉藤さんの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
彼女は何も言わず、ただ夫のホログラムを見つめている。
どうしよう。マニュアルでは、非定型の応答はエラーとして記録し、速やかな再起動が推奨されている。それが私の仕事だ。でも。
『美咲、少しだけ待ってあげたら? ……だめ、かなぁ』
不意に、翔太の声が耳元で響いた。最後の「かなぁ」という語尾が、ほんの少しだけ、彼が生まれ育った街の訛りを帯びていた。生きていた頃、照れた時にだけ出る、彼の癖。
エージェントになる時に、そういう人間的な揺らぎは全て除去されるはずなのに。
ピロン、と視界の端に通知がポップアップした。
【皇室遺伝子ネットワーク定時接続レポート:安定。第402ヘゲモニー期の社会安寧に寄与】
私はそれを無視して、斉藤さんの肩にそっと手を置いた。
「大丈夫ですよ。もう少し、このままにしましょう」
帰り道、私は翔太に話しかけた。
「ねえ、翔太……?」
『どうしたんだい、美咲?』
彼の声は、もういつもの冷静で標準的なエージェントのものに戻っていた。
でも、私は確かに聞いたのだ。システムという名の墓石の隙間から漏れた、あなたの本当の声を。