ログの向こう、満タンのスタンプ

──平成0x29A年02月01日 23:20

最終の自律型バスが行ってしまった後の静寂は、耳に痛いほどだ。
蛍光灯が唸るだけの第3訓練ブロック、その一室で俺は机に向かっていた。今日の訓練生のレポートを査定するため、泊まり込みは覚悟の上だ。

「……またか」

吐き出した息が白く見えそうなほど、部屋は冷えている。ディスプレイには『ディスクを読み込めません』という、もはや見慣れたダイアログボックス。原因は、提出されたMOディスクだ。カチン、カチン、とドライブが虚しい音を立てている。

『聡さん。だから言ったでしょう。このカリキュラム、いい加減に差分リクエストを出さないと』

網膜に直接投影されるテキストで、陽菜が話しかけてくる。俺の妻だった彼女は、今では最も優秀なアシスタントエージェントだ。

「党ドクトリンが『物理的記録媒体の取り扱いは危機管理上必須』なんて定めてる限り、リクエストは即時棄却だ。お前も教官だったんだから分かるだろ」

『非効率なだけよ。安定と停滞は違うのに』

陽菜のロジックはいつも正しい。だが、正しさだけでは、このねじくれた世界は回らない。
俺はため息をつき、訓練生の個人フォルダにアクセスする。最後の手段だ。

「記憶補助アプリの同期ログから、レポートのテキスト部分だけでも復元するか……」

『倫理規定違反ギリギリよ。閲覧は課題に関連する部分だけに限定して』

「分かってる」

アプリのログを開くと、膨大なテキストデータが流れ込んでくる。訓練の記録、思考の断片、検索履歴。その奔流の中から、レポートの構成要素だったはずの文字列を探す。

『……あった。第四項目のシミュレーション結果』

陽菜の指摘で、該当箇所をハイライトする。たしかに、MOディスクに書き込まれたはずのデータだ。これでなんとか評価はできる。安堵したのも束の間、俺の視線はログの別の部分に吸い寄せられた。

訓練とはまったく関係のない、個人的な思考の断片。

『……どうして、うまく話せないんだろう』
『あの人が淹れてくれるコーヒー、いつも少しぬるい』
『売店のポイントカード、あとスタンプ3つで満タンなのに』

訓練生の、誰にも見せるつもりのなかったであろう心の声。思わず、胸が詰まる。この生徒が、自販機の横にある古びた売店で、よれた紙のポイントカードを大事そうに財布から出している姿が目に浮かんだ。

『聡さん。もう十分でしょう』

陽菜の声は、静かだが有無を言わせない響きを持っていた。俺は慌ててログを閉じる。

「ああ……そうだな」

レポートの評価を終え、サーバーにデータを保存する。カチン、と虚しい音を立てていたドライブから、傷だらけのMOディスクを抜き出した。

静まり返った部屋で、俺は自分の記憶補助アプリをそっと開く。ずっと昔の、陽菜がまだ生きていた頃のログだ。

「なあ、陽菜」

『なに?』

「お前が生きてた頃、一度だけ、お前の記憶補助アプリをこっそり見たことがあるんだ」

返事はない。ただ、俺の網膜に映るテキストのカーソルが、わずかに揺れた気がした。

「俺の誕生日の前日だった。お前が隠してたログを見つけた。……あの売店の、満タンになったポイントカードの画像データだった。俺が好きな、あの高いコーヒーを淹れてやろうって、メモが添えてあった」

あの時、俺は気づかないふりをした。そして翌日、陽菜がはにかみながら差し出した紙コップのコーヒーを、初めて飲むかのように驚いてみせた。

「……嬉しかったけど、最後まで言えなかった。ごめんな」

深夜の訓練室。返ってくる言葉はない。ただ、俺の視界の隅で、エージェントのステータスを示す小さな光が、いつもより少しだけ、優しく瞬いた。