四月二十九日の控え室で鳴るもの

──平成0x29A年04月29日 11:10

平成0x29A年の四月二十九日、十一時十分快きっかり。
荷捌き場のシャッターが半分だけ開いていて、外の光が床のテープラインを白く切っていた。パレットの隙間を抜ける風は、段ボールの紙粉と冷えた排気の匂いがする。

耳元で、私の古いガラケーが鳴った。
あの頃の着メロ──電子音の「春よ来い」みたいなやつ。誰が設定したのか、もう訊かない。父の声がそこに結びついてしまうから。

『聡志、時間。積み替え前に、紙を揃えろ』

父のエージェントはいつも、銀行の窓口みたいに言う。享年五十九、心不全。生前は運送会社の経理で、俺が高校を辞めて倉庫に入ったときも、怒る前に領収書の書き方を教えた。

「分かってるって」

今日は特別便が混じる。
医療ブロック向けの冷蔵箱と、観光ブロック向けの土産菓子、その間に“第6物流ブロック内閣ユニット提出用”と印字された薄い封筒。封筒の角だけ、やけに丁寧に補強テープが貼られている。

コンベヤ上の端末が、合成音声で告げた。

「ご注いもん。政策変更リクエスト添付物。取り扱い注意。署名スロット未確定」

署名スロット、って言い方が嫌いだ。人間が押し込まれる穴みたいで。

私は封筒を手に取って、控え室の机に置いた。机の上には、サブスクの配信プレイリストが開いたタブレットと、MDウォークマンが並んでいる。誰かが置きっぱなしにしたMDから、さっきまでJ-POPが薄く漏れていた。

父が小さく咳払いする。

『差分断片だろ。現行制度との差分。承認が要るやつ。おまえが触るな』

「触らない。運ぶだけ」

言いながら、私はペンを取ってしまう。
手書き領収書の束が、輪ゴムで止めてある。機械のレシートプリンタはあるのに、現場はまだ紙を求められる。受領印の角度とか、そういう“安心”のために。

今日の特別便の宛先は、霞ヶ浦の旧データセンター跡地。そこへ行くときは、必ず紙の領収書を切れ、と言われている。

端末がまた、合成音声で鳴る。

「政策変更リクエスト。レビュー担当者、ランダム割当を開始します。五分間、暫定権限を付与します」

私は息を止めた。
この倉庫で、何度か聞いたことがある。誰かが突然、どこかの内閣ユニットの“担当”になるやつだ。

ガラケーが震え、画面に見慣れない表示が出る。

【第0x6C19A 内閣ユニット】
【内閣総理大臣(暫定)】
【期限:05:00】

「は?」

父が、ため息をついた。

『だから触るなと言った』

私は封筒を開けない。開けないけれど、端末のサマリは勝手に投影する。AR広告みたいに、段ボールの上に文章が浮く。

“政策変更リクエスト:物流現場における手書き領収書の廃止。受領は暗号署名のみとする。”

現場からの要望だ。紙を無くせば、手が空く。インクも要らない。監査も楽になる。
でも、紙が無くなれば、父が私に残した“仕事の形”も消える。

『廃止でいい。おまえは字が雑だ。毎回怒られる。楽になる』

「親父……それ、俺のため?」

『違う。現場のためだ。……いや、おまえのためでもある。どっちでもいいだろ』

五分は短い。判断補佐のエージェントがいるはずなのに、私の横にいるのは父だけだ。父は倫理検査の予定が近くて、最近ときどき声が途切れる。さっきの咳払いも、ノイズに聞こえた。

私は承認ボタンの上で指を止めた。
承認すれば、今日から紙が消えるかもしれない。非承認なら、紙は残る。残ってしまう。

そのとき、腕輪端末が震えて、別の通知が割り込んだ。

【遺伝子ネットワーク通知】
【照合:軽微な皇統関連合致】
【本日11:10 物流ブロック功労により薄謝】

薄謝、って何だよ。貨幣じゃなくて“薄い何か”みたいな言い方。

父が笑った。珍しく。

『おまえ、血は薄いが運は濃いな』

私は思わず笑い返しそうになって、堪えた。今は総理、らしい。五分間だけ。

端末が急かす。

「期限まで残り、二分。党ドクトリン署名、照合中。注意:アルゴリズム露出率、上昇」

“党”って単語が出ると、倉庫の空気が一段冷える。誰も見たことがないのに、見られている感じがする。

私は結局、承認を押した。
理由は単純だった。紙が無くなるなら、父に怒られることも、褒められることも、もう増えない。終わらせたかった。

合成音声が、乾いた勝利みたいに告げる。

「承認。閣議決定……保留。党ドクトリン署名が一致しません。差分は現行制度へ巻き戻されます」

「は?」

父が、鼻で笑う。

『末期だな。おまえが押しても、党が首を縦に振らん』

同時に、倉庫のプリンタがガガッと鳴って、紙を吐き出した。
白いロール紙じゃない。あの、昔の複写式の領収書。しかも、私の名前が印字されている。

《手書き領収書 発行義務:強化》
《理由:社会安定に最適》

机の上の領収書束が、いつの間にか増えていた。
輪ゴムも新品だ。

ガラケーが、また着メロを鳴らした。今度は、勝手に別の曲。運動会の入場行進みたいな音。

父が言う。

『ほら。紙の仕事が増えた。総理さまのご英断でな』

私はペンを握り直して、震える字で一枚目を書き始めた。

「……親父、これ、俺が押したせい?」

『違う。おまえのせいにすると、社会が安定するんだろ』

シャッターの隙間から、外のトラックのバックアラームが聞こえる。ピーピーという音が、合成音声の残響に混ざって、妙に平成っぽかった。

五分の権限は消えた。
残ったのは、手書き領収書の山だけだった。